若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

平日のスーパーにいる大人たち

 


しばらくお仕事番組をみれなくなった時期がある。仕事に嫌気がさして何ヶ月も休んでいたのである。ぼくの通帳口座が休みのリミットを示しており、家で過ぎる無為な時間にイライラしていると金づかいが荒くなってリミットが近づいてくる速度は増した。すぐに職場に復帰しなければと思ったものの、何日も会社に行かないとどんな顔をして働けばよいのかわからなくなるのだ。同僚たちはぼくのヘンテコな顔をみてもイジったりしないだろう。そこまでの仲ではない。おかしな顔を認知しながらもみなかったことにしてパソコンに顔を戻す。そんな光景を掻き消すように金をつかった。

 


働かざる者食うべからず。とは言うが働かなくても腹は減る。赤ちゃんは食べるのが仕事。とも言うが仕事を放棄した人間の食事は仕事としてみなされるのだろうか。自分で米を炊いて食ったらそれは働いたことになるのだろうか。まとまりのつかない頭でスーパーへ行った。平日の昼間でもスーパーにはそれなりの人がいて驚かされる。あの人たちは主婦なのだろうか。平日休みの人なのだろうか。リモートワークが認められている会社の人なのだろうか。まさか全員会社に行きたくない人たちではあるまい。真人間たちの間をヒゲにTシャツのぼくが小さくなりながら通った。カゴは邪魔にならないようにぼくの真後ろに持って移動する。誰の印象にも残らないように素早く食材を詰めて精算した。

 


それから周りの目を気にしてスーパーに行くためだけに服を着替えてヒゲを剃ることになる。家に帰れば、またTシャツである。

 

 

 

働いてる人をみてもいたたまれない気持ちにならない、と認識したのはつい最近である。働く人の大多数は頑張っている。自分の夢を叶えるためかもしれないし、頑張ってるフリなだけかもしれない。わからないが皆、懸命にみえる。あのときはそれを直視できなかった。みるためにはどうすればいいのか。自分を肯定できるほどの仕事をするのである。働いてる人をみても動じないのは働いてる人だけである。そしてその人の頑張りに気づけるのも同じである。そこから自分も頑張ろうと還元されていく。家で浪費していてもその輪に入れない。働かざる者食うべからず、とは半強制的にその輪に人を入れこむ言葉だ。入ってしまえばまっすぐにみれる。