若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

交換可能な現代で

 

 


貨幣のメリットのひとつが保存しやすいことにあるそうだ。物々交換をしていた時代に食材をたくさん持っていても腐らせてしまうがお金に交換しておけば長く保つ。或いは価値を定めるのに役にたつ。プラスドライバーが100円だとすれば100円相当の価値をもち、100円を所持していれば交換可能になる。「お金で手に入らないものはない」というのはある意味では真理で、お金に換算できないものは交換ができないので貨幣の価値が揺らいでしまう。プライスレスとは、値がつけられないほど高価であるか、人によって価値がかわるような値段に変換しづらいものであると考えている。

 


わたしの業務内容で残業するなと上司にいわれた。残業して時間をかけるほどの業務ではないらしい。しかし、提示された時間でおわらないから時間を追加して処理しようとしているだけであり、未完成のまま報告しても怒られる。つまりはもっと短時間で仕事を処理しろとのことである。この時間あたりの価値は他の社員との比較で算出されたものであろう。同じ時間をかけてもできあがるものはちがう。人口が爆発的にふえてテクノロジーも人類史上に類をみないほどの速度で発展してつくりだすものに差が出やすくなった。カリスマホストが自らの価値を誇示して1日、あるいは数時間で使いきれないお金を生み出す傍らで、安い仕事が終わらずに上司に謝りに行く。

 


謝罪を繰り返して人に多くを求めなくなった。与えられてもなにも返せないから。それでもわたしは求めてしまう。返すことができないだけでなく、つくり出すこともできない。食事をつくろうとしても食材を育てることはできない。暖をとろうにも、どうやって生まれたのかわからない電気を暖かさにかえるしかない。現実逃避しようと思えば名のある人が予算をかけ集めて配信した物語に逃げる。高度化した世界で、誰ともかわれずに自分の存在だけが否定されて交代を匂わさられる。

 


そこまで考えてしまうと自分がなにを思ったとしても大した意味などなくて、エンタメを楽しんだところでなにも起きないと感じ、楽しさまで損なわれてしまう。たしかなものはご飯と酒だけで、価値は感じなくても腹にたまって、わたしを酔わせる。

退職を申し出るきっかけ

 

 


分水嶺だ。ひたひたである。むしろすこしぐらいこぼれている。こぼし酒というか居酒屋でうれしい、こぼした分も升に入れてくれるタイプの日本酒状態。つまりはこぼれている。あれぐらいやめたい気持ちがおさまらない。

 


ついに、今朝は寝起きに転職サイトを開いていた。「人付き合いが苦手な方向け。黙々と作業をしてみませんか」とある。服屋さんで、自分に着られるために置かれているのかと錯覚する瞬間のような心持ちが寝起きにきた。1日働いて怒られずに済んだ日がいつからないだろうか。黙々と働きたい。

 


次なる一歩は退職へのスタートダッシュになる。入社して5年目。5年間抱き続けていたやめたい気持ちが加速する。数日前から上司に退職を持ちかけて、そこからなにを話すかを頭に浮かべている。出社して頭に浮いている会話を再現してもよいが、今日は一段と冷える。腹痛持ちにとって寒さは生きづらさに直結する。荷物を自席においてそのまま個室に駆け込む。

 


そこで本日やらなければいけない仕事に気づくのだ。正確には寝起きから気づいていたが、個室ではじめて直視した。まじまじとみると本日、本来なら昨日、融通してもらって本日の11時までの仕事だ。これを処理する前に退職願いなんて風情がないね。退職を申し出て、話し込んだ場合に、この仕事の期限が迫って自分の首を絞めかねない。つまりは攻め入るは今ではないのである。

 


これがこの日3度続いた。時刻は18時であった。仕事の遅れにより、残業を申し出るときに上司に怒られたが、申し訳なさから謝罪をしておわった。退職を切り出すタイミングがわからない。

 


わからなさに頭をやられて軽めの仕事を3時間ほどして帰った。コンビニで蒙古タンメンとストゼロと、冷たいまま食べるチキン南蛮と、明日の朝の食パンを買った。

 


ストゼロを飲みながら今月の賞与をみる。わたしの苦しみは記憶のないカードの引き落としに消えた。

 


打算のない恋愛ドラマをみながら酔っ払った。

 


ドラマに笑い、今朝みた求人を見返す。どうやら期間工の求人だったようだ。詳細の勤務地住所は載っておらず県より先の情報がない。それでも9%のアルコールはわたしに幸福をもたらしいていた。明日なにかの拍子に退職を告げられるとよい。アルコールに決意を曇らされた目の前に、6枚切りの食パンだけが動かずにいた。

「学校で習わなかった?」の、お前はなにを習ったんだ

 

 


わたしのはてなブログを書きたい欲が高まってきた。つまりは嫌なことがあった。嫌なことぐらい毎日ある気もするが頭に残っている。

 


わたしは部署内で最年少だ。27歳で最年少。世間一般にみて、若いのか老いているのかわからないがアイドルなら卒業していてもおかしくないし、大学1年生であれば留年8年生だ。大学は7年までしか留年できなかった気がする。最年少ということは権力がない。若くして権力を持っているのは王族の後継か、女子高生ぐらいであろう。

 


能力があればそんな序列も覆そうという気力が湧いてくるかもしれないが能無しである。そこからの選択肢としては、経験値をためて序列をひっくり返そうとするか、YESマンになるか、だ。わたしはYESマンを選んだ。

 


YESマンは上司が間違ってる気がしても、又は1ヶ月前と言っていることがちがってもYESマンだ。反論はない。さすれば平穏が訪れん。訪れんと信じている。

 


YESマンなので飲み込む速度は違えど肯定する。そんなあたしが本日は飲み込んだ後に腹を下した。

 

 

 

「学校で習わなかったか?」と言われたのである。

 


「たぶん、習いましたがわかりません」と答えた。

 


この言葉が腸内に入った後も異物感を残すので冷静に考えてみた。学校で習ったことのどれだけがわたしの中に残っているだろう。ひょっとすると1%ぐらいではないだろうか。ロング缶を数本あけた今は体言止めしか出てこない。仮にこんなひどいことを言い放った先輩が学校で教えてくれる情報のすべてを頭に留めているとする。なぜ電通にいない。電通は言いすぎだとしてもわたしと同じ会社にいるのはおかしいであろう。いや、学校のことがぜんぶ頭に入っている人であれば電通にいてもおかしくはない。

 


これが見聞きしたものがすべて記憶されるべきだ、という考えてあれば、おめでとうごさいます、MENSA会員です、といった感じだ。

 


ありえない可能性を消していくと先輩は大嘘つきだ。あるいは身の程知らず。しかし私はこれにYESという。つまりはわたしも嘘つきだ。

時間を酒で潰す

 


昨日はてなブログに、長らく文章を書くことをやめていた理由について、日を跨いで振り返ると宣言した気もするがそんなことを書く気はなくなった。それに読み続けている方もいないだろう。仮にわたしのネットストーカーをしているのであれば素直に名乗り出てほしい。新しく記事を書いたらお伝え致します。

 


宣言を守る気はないが、昨日の記事を書いていて発見があった。嫌なことであれば書き続けられる、といったものだ。すなわち、厭世的なあたしの文章に終わりはない。約束を破ってまで書きたいことがあるとすれば、それもまた嫌なことだ。

 


仕事熱心でもないわたしは朝起きて、帰りたいと思う。家の中で。日中は仕事の忙しさに追われて、そういった思いは離れていくのだが、なにか失敗したり、大幅な遅れがあると、やはり帰りたいと思う。陽が落ちて、西陽がブラインドを通り抜けて身体を暖めると、また帰りたいと思う。そんな思いと、残業にうるさい上司が、わたしに理由をでっちあげさせ、タイムカードを押させるのだ。

 


駐車場を出た途端に湧いてくる後ろめたさを、たばこの煙でぼやかして、家に辿り着くと、なにをしていいのか、わからなくなる。

 


空腹が食事を求めるが、疲労感は身体をソファに縛りつけて放さない。せめてソファで明るい気持ちになろうとYouTubeを開いてみても、観たい動画が一切ない。普段は料理系の動画を観ているが自らが料理を拒否して、空腹に耐えているときには観る気が起きない。料理の影からYouTubeに勧められる動画はすべてが陳腐にみえる。果てはわたしのスマホのアプリに有用なものなどない気がしてくる。

 


社内にいるときは、早めに夕食をすませて独学でもしようと計画していたような記憶がある。記憶はあるが退屈に屈してビールをあけていた。アルコールが入った時点でなにも学べることはない。お湯を沸かしてUFOにそそぎ、切り過ぎたキャベツをタッパから皿に移す。テレビに2週目の海外ドラマを映してビールと焼きそばで幸福感を手繰り寄せようとする。久しぶりに食べるUFOの美味しさに驚く。間のあいたドラマは、前回までのあらすじが思い出せずに、経緯を思い出そうとしていたら満腹感に襲われる。

 


ドラマが終盤に差し掛かると、きっちり盛り上がりをつくって次の話を観たいような気持ちにさせられるが、追加で50分間もテレビを眺められる自信がなく諦める。

 


なにもしたいことはないのに、アプリを切り替え続けながら浴槽にお湯が溜まるのを待った。

 


身体を洗って、洗濯物を干し、皿を洗った。なにもやりたいことがないことに絶望しながら皿をすすぐと流しからカップ焼きそばのにおいがやわらかく香った。

アドレナリンにまかせて文を書いてみる

 

 

以前、はてなブログに記事を書いていた。執拗に、毎日に。なにかに追い立てられるように。記事を載せなくなって1年が過ぎた。なんで記事を書かなくなったのだろう。

 


人に自分のことを見られたくなくなったのだろうか。それなら大丈夫だ。大した人数が記事を読んでたわけではない。ただ、誰にも見られていない安心感を知っている。ヴィレッジバンガードやカルディのヒト1人分に、ちょうど設計された廊下で人と出くわすと違う通路に逃げ込んでしまう。おそらく目当ての商品はその人が塞いでいる通路にある気がするのだが、隣の通路で気配を探りながら興味のない商品を手に持って成分表などを見てみる。このご時世に買わない商品に手をベタベタと触るのもよくないと思い、急いで商品を戻す、などをする。

 


見られたくないが、せっかちでもあるので、じわりじわりとその人に近づいて、立ち読みをする客を牽制する本屋さんのようにその人の隣まで距離を詰めていく。商品を手にとってみて、ご時世を思い出して戻し、その人の前の棚に視線を送りながら立ち去るのを待つ。わたしの圧に屈した人は何も買うことなく、その場を後にする。わたしは勝ちを確信した、トムとジェリーの、トムのようにゆっくりと棚の前に立ち、目当ての商品がないかとはじから順番に、左から右、下の段に移って、左から右と商品を探す。右下まで辿り着いて、商品がないことを確認してから、また人に会わないように通路をウロウロする。こんな人間である。

 


ランニングをした後のアドレナリンに任せて文章を打ってみた。嫌なことは言語化しやすいと気づく。やはり、人には見られたくない。なのになぜ公に向けてツラツラと文を書いているのか。これについては日記を習慣化するために明日に回そう。

ドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』における結婚


両親に会うと間違いなく「結婚しないのか」と訊かれる。会わなくてもLINEで訊いてくる。相手がいるし、いずれしようと思っているが自発的に式をあげようという気にならない。この気持ちを自分でも不思議に思っていたが、ドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」の第一話でその正体が明らかになった。

 


「生きるとか死ぬとか父親とか」はコラムニストのジェーンスーさんの同名小説が原作のドラマだ。毎話、スーさんが人生相談にのりながら、その相談に沿ったテーマで話が展開される。その第一話でよせられた相談が結婚なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは「生きるとか死ぬとか父親とか」第一話のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


30歳手前で結婚する意思が湧いてこない相談に対してスーさん役の吉田羊さんはタイムラグなくすぐに回答しました。「独り身がドラッグなのだ」と。一人暮らしで享受した自由を手放したくなくて結婚したくないのだ。家事やお金の管理など家の役割がそれぞれに割り振られて、役割を遂行しないと責められる。管理者が自分ではないと自分の行ったことに対して文句が出てきてしまう。なんたる不自由。出かけるときは行き先や帰ってくる時間を宣告しなければならない。目的地もなくひとりで彷徨いたいときだってある。

 


結婚自体に否定的な感情を持ち合わせているわけではなく、今の生活が揺らいでしまうことに恐怖しているのだ。ぼくはパートナーと既に一緒に暮らしている。結婚によって大きな変化があるとは考えていないが、それでもなにかが失われてしまいそうで踏み切れずにいる。

 


ドラマでは

"結婚とは死ぬほど好きだと思った記憶を留めておくこと"

と語られていた。

 


いつかすきじゃなくなっても婚約をしている事実が2人の関係を肯定するのである。しかしその気になれば簡単に離婚できるのではないだろうか。あくまで婚約関係は2人を繋ぎ止めておく防波堤でしかない。しかもその防波堤はお子さんや世間の目など他者による部分が大きい気がする。結婚とは結びつきを強めて、それを周りに周知し結び目が解けないようにする、一種の契約ではないだろうか。携帯電話の2年契約と変わらない。こちらはスパンが定まっていないだけの話だ。ぼくが結婚したがらないのは既に結び目の強さを知っているからではないだろうか。向こうや両親が結婚を急ぐのはその結び目の強さが十分だと思えないからだろう。結婚以外に結び目の強さを認識できる行為があるのなら教えてほしい。おそらく結婚ほど明確さを持ったものはない。やはり解けないようにするには結婚しかない。しかしいまではない気がしてしまうのだ。

何者かになれる可能性

 


メディアへの出方がふえてからテレビに知らない人が映る頻度が上がった。毎日のようになにかの分野で1番になった人や動画がバズった人が現れる。芸能人に限定してみてもその数は多いので芸事で売れようとしてる人はさぞ大変だろう。

 

 

 

カメラが追うのは決まってなんらかの才能をもった人たちだ。視聴者もどこでもみれるものにチャンネルを合わせない。日常を垣間見ようと思ったらYouTubeの方が向いているだろう。潤沢な資金を投入して他所でも実現できることをしてもしょうがない。プロが集まる世界では、やはり演者もプロであってほしいと思う。

 


しかし才能を目にさらし続けて、かつ、その才能をまったく知らない人たちまで残らずもっていたら自分の何者でもないことに悲しくなる。ぼくの身の回りにある道具はプロが、あるいは、プロによってつくられた機械によってつくられている。読んでいる文章もプロによって書かれてプロによって編集されてプロによって印刷される。会社と家の行き帰りでは一般人の生気を感じないのだ。

 


そしてぼくは相変わらず誰かがやった仕事をなぞっている。何者かになるためには、誰もやったことのないことをやるには。

 


その答えの1つがネットに載っていました。

 


リンク先では「読書大全」の著者、読書猿さんが質問に答えています

https://diamond.jp/articles/-/266146

 


学びによってその学問を深めた人の思考に触れられる。同じ数式をかいて、同じ言語を話せば思考の片鱗に触れられる。ゼロから再現することはできないが、なんらかの考えに少しだけ自分の考えを足せられる。それがなんらかの形になるかもしれない。その形によさを見出してくれる人が現れるかもしれない。思考より自由なものはない。思考は既に何者かになっている。