若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

ケンリュウ『紙の動物園』の老いの選択

 


ある日を境に足をつることがふえた。つっている間はなるだけ足が動かないようにして痛みが去るのを待つが、あの時間は相対性理論がもろに働いて永遠痛みが続くような気がする。足がつる頻度が増えるのは加齢のせいではないだろうか、と怖くなった。もし違うとしても歳をとる度に身体は衰えていって足をつる痛みどころではない苦しみがぼくを襲うだろう。

 


ケンリュウさんの短編集「紙の動物園」で一層惹きつけられたのもそんな年齢に関する話だった。

 


表題は「波」である。不老不死を叶える術を得た人類は居住可能な星を目指しいている。ただし乗組員全員に治療を行うことはできない。船のエネルギーや食料に限りがあり乗員が増え続けたら不足が生じる。かと言って子どもを産まなくなってしまえば長い航海を越せずに人類は衰退してしまう。機械によって最適な計算が行われながらも治療を行う判断は人が下さなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここからは本作品のネタバレをしていきます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもに不老治療を行えば成長しきらないままである。大人には不老治療に嫌悪感を示すものもいる。ぼくならなにを選ぶだろう。歳をとるのは怖いし、好き勝手に遊び続けたいが、酒は飲みたいし、もし嫌いな大人がいても力では勝てない。かといってなんの治療もすることなく年老いるのは恐ろしい。大切な人が認識できなくなって自分のこともひとりでできなくなるかもしれない。そんなリスクに耐えられるだろうか。

 


この話は老いだけでは終わらない。地球に残っていた人類は地球上で技術を発達させて宇宙船の乗組員を追い越して居住可能な星に辿り着いていた。しかし身体は全て機械に置き換わっていた。人とは識別できないレベルに。彼らは異星人だと思われるほど変貌していた。

 


永遠の命を手に入れて肉体さえも不要になる。

 


テレビも冷蔵庫もパソコンも機械だ。我々人間は何万年も前からこの姿だ。多少自分を包む布の形や髪型に変化があったぐらいだろう。機械はどうだ。ぼくが生きている20数年の間に全く形はかわって機能はふえ、みたことのない姿のものも現れる。機械になってしまえばパソコンのように新しいソフトがどんどん入ってやれることがふえていくだろう。この作品では機械になったものたちにも子どもがいた。新しい人格を自分からいくつも創造できる。食料などに悩ませられることなく機械仕掛けの人間たちはどんどん数をふやした。

 

 

 

歳をとらずにやれることがふえていく。とても魅力的に思える。しかしこの作品を通して感じたのは恐れである。老いは怖い。あらゆることができなくなっていくことが辛い。だが、無限大の時間を与えられてなにをしようとする。身体能力が衰えずに無限大の時間を与えられればなんにだってなれる。いまから甲子園を目指すことも可能だ。しかしそこに価値はあるのか。誰もが同じように無限大時間をもっている。あらゆることが成し遂げられる。故にそこに価値はない。だから消費できない時間をなにもせずに過ごすだろう。

 


ずっと咲き続ける桜に美しさを感じるのだろうか。他の木に混じって風景となってしまうのだろうか。永遠にソリティアをやり続けても完成に喜べるのだろうか。少年時代を愛しく思うのは既に過ぎ去って戻ってこないことを知ってるからではないだろうか。上司が「怒ってもらえるのはいまだけ」と何度もいうのはぼくの歳を恋しく思ってるからではないのか。

 


時間は有限である。だからこそその時間内に偉業を成し遂げると称賛される。自分が無為に過ごした時間を偉業にかえられているのだから。老いとは過去に価値をもたせることである。ならばデカいことをしよう。老いたときに一層輝くように。