廣野由美子『批評理論入門』に学ぶ書評の書き方
ぼくがブログに卸している文章はごく一部だ。オフラインで毎日、日記を描いて個人名が出てこないものや攻めすぎてるものを除いたものをこちらに載せている。数にしてみれば全体の3割程度だろうか。それ以外も含めると700日ほど続いてる。
はじめたきっかけがカフェでの会話だった。自分には不釣り合いな駅ナカのカフェで周りに男性は見えなかった。そんな場でなにを話していいかわからずにフォークの音だけを響かせていた。そんなぼくらの隣の席で、どのタイミングで息継ぎをしてんのかわからないほど立て続けに話をする2人組の女性がいた。お洒落な店内に物怖じせずに話す彼女たちはお店に華を添えているようだった。
ぼくも止めどなく会話をしたい。そんな思いで日々の発見や映画の感想などを記録に残している。ただ映画や本の感想というのは厄介で、端的にいうと「おもしろい」と「つまらない」になってしまう。これをどういった形で伝えるのかに頭を悩ませる。テーマが明確に伝わってきても、薄っぺらいと感じてしまうともう書けない。強い共感や衝撃、強烈な嫌悪感を与えられないと難しい。
自分の感情を盛大に盛り込みながらもいろんな人が作品に触れたくなるような文章を書きたい。そんな思いで廣野由美子さんの『批評理論入門』: 『フランケンシュタイン』解剖講義を読んだ。この本を読んで驚かされたのがひとつの作品であっても目のつけどころによっていくらでも書評は書ける、ということである。物語の語り手の信頼性であったり、時代背景をどれほど描写しているのか。政治的な目線でも読めるし、エロい目線でも読める。書評の可能性を感じた。
『抑圧された考えや本能、欲望などは、決して消えるわけではなく無意識のなかにとどめられているので、別の装いを帯びて表面化してくる。それは、夢やふと口から滑った言葉、神経症的、そして芸術作品の創造行為など形をとって現れることになるのだ』
書評にしても、作家さんであっても考えを文字に起こしている。つまり、知識の拡充によって目線を増やして、表現の仕方を増やせば伝えたいことも増える。カフェのお喋りな女性がそうであったように、伝えたいことがあるから喋るのである。