若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の社会的理不尽

 

 


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』はこれまでのヱヴァの枠からかなり飛んだ意欲作である。SF作品で描かれるのは基本的には未来のテクノロジーだ(スターウォーズは遠い昔 はるかかなたの銀河系が舞台だが)。ぼくは未来であろうが過去であろうが未知の見慣れない装置や文化がみたいのである。そしてそれは時代によってアップデートして然るべきであり、それこそが新劇場版という形でヱヴァをつくる意義のひとつであると思っている。その点からみればQは大成功である。

 

 

 

ここからはヱヴァ序からQまでの作品のネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


シンジくんはニアサードインパクトから14年後に目を覚ました。シンジくんの手によって人類は大きなダメージを受けた。当然、周囲の目は批判的である。困惑するシンジくん。そこへ綾波の乗るエヴァが現れる。周囲の反対を押し切ってシンジくんは綾波と共に戦艦を飛び出したーー。

 

 

 

シンジくんは無理矢理ヱヴァに乗らされた。そしてそれを嫌がると「嫌なら乗るな」と言われる。あくまで、自分の意思で乗れと。そのくせシンジくんは誰よりもヱヴァを乗りこなせられるので現場を離れた後も組織の人間が尾行する。その間も共に闘った仲間や世界は壊されていく。だからシンジくんはヱヴァに乗ることを選んだ。自分から。そして強大な敵に向かっていく。その意思をミサトさんも尊重して、後押しした。

 


それなのに結果だけみて、その行動を批判する。外部の人間や、指示を出したミサトさんまで。当事者じゃないにしろ実際に被害を被っているのだから、外部の人間がシンジくんを否定するのはわかる。だが、ミサトさんも同じ態度を取るのはおかしいのではないだろうか。あの時、シンジくんはミサトさんの同意が得られなくても行動をかえたとは考えにくい。しかし、自分の言動をなかったかのような態度はなんだ。そして部下のミスを、部下と一緒に頭を下げて責任をとるのが上司のあるべき姿なのではないだろうか(頭を下げて許されるような失敗ではないが)。

 


だからこの作品で唯一シンジくんに寄り添ってくれるカヲルくんが有難いのである。すべての事情を知っていながらあそこまで優しくしてくれる懐の広さ。そしてシンジくんとの共通点の多さ。映画を観ている内にぼくとカヲルくんの想いは一致した。「シンジくんに幸せになってほしい」

 


シンジくんが綾波を助けようとしてサードインパクトが起こった。自覚はないにしろ世界よりも1人の命を選んだのだ。カヲルの願いも、再びサードインパクトのようなことが起こりうるリスクを考えたら世界よりも個人を選ぶことであり、ミサトさんだってシンジにつけられた爆弾のスイッチを押せなかったのは結局、シンジくん個人を選んだことに他ならない。

 


このような2択で世界を選べる人間なんていないのではないだろうか。選択の重さは違えど、ぼくらは排気ガスを撒き散らすし、紙のストローじゃなくてプラスチックのヤツがいいと思う。所詮「世界」なんてものは目の前に広がっている光景で地平線の先のことまで考えられる余裕はない。

 


「Qは理不尽な社会像を表すようだ」と評する文章をみたことがある。ミサトさんは状況に応じて言うことをかえる無能上司で、ヴィレの一味は厳しい他部署である。カヲルくんは優しい先輩社員だ。もうこの人しか信頼できない。

 


しかし、有能な先輩社員も目標達成間際になって黙ってしまう。状況は刻一刻を争う。立ち止まってる場合ではない。ぼくがやるしかない。それが大赤字を引き起こすとは知らないで。

 


この作品は賛否両論あるそうだ。破とテイストが違うからだろうか。流された予告とモノが違うので期待を裏切られてしまったのだろうか。

 


ぼくもこの結末の後に何年も待たされていたらモヤモヤした気持ちのまま評価を下げていくかもしれない。しかし、シンがある。シン公開直前にこの作品をみなおした。シンがどうにかしてくれる。あのラストからなんらかのアクションが起こると思うと期待は高まる。そしてなにより社会の理不尽さを知った。過去作をみて本作を迎えるまでに大人になった方、あるいは大人になってからこの作品を観返した方は、自分と同じように批判され悩むシンジくんを観て、励まされたのではないだろうか。中学生の自我が芽生えていく話が大人に寄り添うものになっていた。