若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

映画『ガタカ』の雲に覆われた星

 

 


去年から今年にかけて差別に対する視線が厳しくなったのではないだろうか。オリンピックにまつわるジェンダー問題しかり、「ブラックライブズマター」しかりである。このようなポリコレ的な問題はコロナ禍と無関係だとは思えない。外に出れずにSNSで人と関わろうとしたときに同じような思考の人たちだけのタイムラインで偏見が強まったり、それがデータとして残ることで偏見が表層化しているのだろう。偏見は時代の流れによって改善されるかもしれないが、新たな偏見が生まれる可能性もある。

 


映画『ガタカ』で主人公が悩むのは科学的差別である。遺伝子操作が発展した未来でデザインベイビーが本流とされ、従来の形で産まれた人は"運任せの不完全な存在"として扱われる。そんな差別に嫌気がさした主人公は地球を離れて他の星を目指すことになるーー。

 


ここからは本作のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現実の世界でも将来、遺伝子操作の安全性が確立されると従来の産まれ方をした人はどう扱われるのだろうか。ガタカでは遺伝子操作によって性別、目の色、肌の色、暴力性などの内面、酒等の中毒性が選べる。大人しくて聡明なヒトを創り出せるし、一切の欲望を持たない勤勉なヒトを創り出せることも、練習をひたむきに続けられるアスリートなヒトも創り出せる。ぼくはこの映画を観ながらゲームのキャラクターメイクを思い出していた。今のゲームも肌の色や口の位置など細かい数値を操作して自分好みの分身を造ることができる。時間をかければ実在する人物にソックリなヒトをつくり出せる。だから、もし今後親になるカップルが本田翼さんの大ファンだとしたら子どもを本田翼さんソックリにデザインすることも可能になるかもしれない。

 


もちろん現在の技術ではそんなことは不可能だ。キャラクターメイクにあるランダムボタンを押すこととなんの変わりもない。見た目は親に似るだろうが、兄弟なのに似てないヒトなんてたくさんいる。自分に似たヒトが産まれるのはなんだか怖い気がするが自分の血を分け与えた存在が全く自分と似てないのはもっと怖い。

 


本作では従来の産まれ方をした人物は差別の対象である。法的にそのような差別は罰されるがそれでも差別はなくならない。法ではヒトの思考まで操ることはできない。だから本作では会社の入社試験も(遺伝子情報を得るために)尿をとれば終わりで、面接によってそのヒトの思想に触れることなんてしない。

 


しかしヒトは思想によって行動を起こす。この映画では度胸試しと称して体力の限界まで遠泳をするシーンが何度も現れる。兄弟で度胸試しをするわけだが遺伝子的に体力が優っている弟に主人公が叶うわけもない。結果がわかっているにも関わらず主人公は弟に勝負を挑み続ける。そしてなんと勝負に勝ってしまうのだ。不思議に思った弟は兄になぜ勝てたかを聞く。

 


「(生きて)帰ることを考えてないからだ」

 


と答えた。おそらく弟も同じように考えて泳げば負けることはない。しかし、理性がそれを阻む。いくら遺伝的に優れたヒトであっても理性が限界を定める。勝利、或いは自分の願いの為なら命さえ投げ出す、そんな覚悟によって得られるものがある。遺伝子を越えられる。それは理性が働いていないという意味では欠陥なのかもしれない。しかし「自分の願い」という視点に立ったときにそれは大きな力になる。物語は主人公が自分の願いを叶えて雲に覆われた未開の星に辿り着く場面で終了する。彼の願いは「差別の蔓延る地球を離れること」だった為、その星が居住可能かどうかに関わらず地球に帰ってこない気がする。

 


この映画の世界観ではぼくらは差別の対象である。寿命も罹りやすい病気も天職もわからない。雲に覆われた星のように不確定要素しかない。自分の本当の得手不得手はわからないし、自分の未来など一年後さえハッキリしない。だからこそなんでもできる。なんでもなれる。おしっこによって職につけれないこともない。わからないとは可能性なのである。