若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

砂村かいり『炭酸水と犬』の「すき」の言語化

 


お付き合いをしていると「あたしのどこがすき?」と訊かれる。自分を本当に好いているのか不安になってのことなのか、自己肯定感を高めたいのかはわからないがふとした瞬間に訊かれる。パッと思いついたものを口にすると、ふざけてるのか、と怒られる。全部などと言った日には本当にすきなのかと怒られる。「あたしのこと、どれぐらいすき?」も同じような問題を孕んでいる。

 


これらの問題に触れているのが砂村かいりさんの小説『炭酸水と犬』である。主人公の女性は、付き合ってる男性が浮気していることを知る。その男性は変に真っ直ぐな性格をしており「浮気相手は浮気相手ですきだから(主人公に)会わせたい」と言う。男性への好意が捨てきれない女性は渋々浮気相手と会うことになるのだがーー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここからは本作のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作では冒頭に触れた「すきの言語化」をさせて自分か浮気相手のどちらをより好いているかを比較する場面がある。2つのすきな理由を訊いた上で主人公は以下のように感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『わたしは気づいていた。言葉にできないのに惹かれることのほうが、恋の本質に近いのだということ。本当の「好き」はきっと本能的なもので、説明なんかできない』

 

 

 

「すき」という気持ちをバシッと定量的に表現できる人間がどれほどいるのだろう。こういった問いを投げかけてきた質問者を納得させるにはなにを話せばいいのだろうか。我々ヒトは遺伝子的に考えるとチンパンジーとほとんど同じ生物である。チンパンジーでさえほぼ同じなのに人間同士でどう差異をつければいいというのだ。カレーとラーメンぐらい違えばもう少し簡単に結論を出せるかもしれないがテレビでラーメン特集をしていればラーメンが食べたくなるし、近所の家からカレーの匂いがすればカレーが食べたくなる。すきな食べ物を答えるのでさえ難儀するのに、同じ材料の同じ製法で作られた有機物を「どちらがどうすきか」など解答するのは至難の業である。お土産の鳩サブレの中から好みの鳩サブレを見つけるのとなにが違うのだ。そんなものはどれも砂糖味だ。なにも考えずにコーヒーと一緒に食べさせてくれ。

 


確かに主人公と彼氏のなれそめは素敵だと思う。しかし浮気が発覚した後の煮え切らない様子に一切の好感が持てないし、そんな彼に浮気の話を避けて、苦しい想いをしながら関係を断ち切らない主人公はさらに理解できない。関係を終わらせられないほどすきなのかもしれないが、そんな彼氏のどこがすきなのか、これを作者自身も上手く言語化できてないように思う。プロの小説家を持ってしてもそれを描き切るのは至難の技なのだろう。

 


ぼくは単純なので、会社で旅行のお土産を貰えばその人のことがすきになるし、スタバのカップにメッセージが書かれているといちいちうれしくなる。70億人の人たちをすきな順に並べようとしても毎秒順位の入れ替わりがある。彼女のことを考えてることもあれば、両親が不自由なく暮らせているか心配になることもあるし、何年も会ってない友人が今なにをしているのか気になることもある。「人間がすき」では駄目なんだろうか。駄目なんだろうな。

 


喧嘩をしたときに「この人といつまで関係を続けようか」と考えてしまうことがある。そのときに足を引っ張るのが『すきな理由』なんだろう。そのときは「気分屋で一緒にいて飽きない」との考えが浮かび上がった。気分屋というか彼女の行動を予想できない点に惹かれているのだと思う。しかし行動を予想できる人などいるのだろうか。「行動が予測できない」だけクローズアップしてしまえば犬の方がぼくと付き合うのに向いている。こんな言葉しか思い浮かばないから彼女は納得しないのだろう。