若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

ポールナース『WHAT IS LIFE』で考える進化と自然淘汰

 


ポケモンに経験値を与えると進化する。経験値は戦闘で相手のポケモンを倒すと得られるが、進化するためには大量の経験値が必要で進化するのに数時間かかる。しかし人間の進化と比較したら驚くほど短時間である。人間が進化したのは何十万年も前なのだから。

 


ポールナース著『WHAT IS LIFE』では進化をはじめ、あらゆる視点から生物について学べる。特に興味を惹かれたのはここで書いている進化や自然淘汰についてである。

 


進化といわれると、「進」という漢字から、進化の度にその種が優れたものになっていくようなイメージを持ってしまう。ポケモンは進化の度に強くなっていく。しかし進化とは自然淘汰による結果でしかない。

 


低身長のヒトが世界のトレンドになれば、低身長の男女がモテて、そのカップルの子どもも低身長になる確率が高い。そうすると人類の低身長の個体数が増えていく。

 


多種多様の生物の中で偶然生き残れた個体が、現存する生物である。最良の進化をしていったわけではなく、なんとかやってこれたモノたちが生き残ってるだけだ。

 


ヒトだって数は多いし、巨大な建造物が造れて、果てしない距離を隔てた同種とコミュニケーションをとれるほど賢くなった。しかしこの進化は正しいものであるのだろうか。我々は他の種には用途がわからないほど複雑な機器を創り出せる。そしてソレをつかって自死することも可能になってしまった。サスペンスドラマを観ればバリエーション豊かな殺害方法があることに気がつく。或いは全く殺意を持っていなくても意識の外で他の種を絶滅に追いやっている。その種の絶滅が人類の存続に不利に働くかもしれない。

 


『人の三〇億個ともいわれる細胞すべてに、最低一つは微生物が棲んでいる。誰もが微生物の細胞を抱え込んでいる。』

 


ヒト科の一個体だと思っていた自分の体内にも30億以上の生物が棲み込んでいるのだ。その住民たちから家賃を徴収すれば今後は遊んで暮らせるだろう。ヒトの細胞は日々入れ替わっている。だから住民たちの顔ぶれも当然毎日違う。つまりここでも自然淘汰が行われているのではないのだろうか。なんなら思考や思い出も。なぜ自分の中に残っているのか不思議な苦い記憶や奇妙な癖が。

 


いくつものバイト先を渡り歩いたぼくは初対面の好感を持たれるように愛想のいい相槌を身につけたようだ。ただこの技術は時に自分を苦しめる。元気に返答すると話し手はこちらが理解したと見なすようだ。分からないことがあっても人の話の腰を折りたくないのでタイミングを見て訊こうとしてしまう。いくつか疑問があると古いものから消えていく。知らないことを学ぶには少々難のある問題だ。

 


先日、この癖を上司に指摘された。なんならこの指摘まで自分で気づいていなかった。それからは上司の方から本当に理解してるのか逐一訊いてくるようになった。ぼくもちょっとずつわからない仕草を大袈裟にするようになった。

 


これからもぼくの体内生物たちは周りの環境や欲望に振り回されながら生きていくのだろう。彼らは現実以上にカオスな空間に晒されている。