若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

『進撃の巨人』に酔う

 


ほんの数日前まで早朝に目が覚めてしまっていた。4時やら5時やらそれぐらいの時間だ。普段は6時にアラームをセットしているのでそこから2時間はやく目が覚めるのだ。進撃の巨人の続きが気になっていたのである。

 


Netflix進撃の巨人を観ている。この間最新話まで追いついたので数ヶ月後に放送される続きが気になっている。漫画に移ってもいいのだが、アニメのクオリティを見てしまうとなかなか移ることができない。

 


はじめは漫画から入った。一期のアニメがはじまるすこし前だろうか。すでに評判は轟いており遅ればせながら書店で単行本を購入した。「万人が評価するので仕方なくですよ?」ぐらいの気持ちで買ってこけ下そうかと思いながら1巻から3巻をレジに持っていった。次の日には4巻と5巻を買った。その3日後に最新刊まで揃えた。

 


止められなかった。進撃の巨人の魅力は「最善をとらないこと」だろう。わけのわからないタイミングで超大型巨人が正体を明かすし、主人公は仲間が喰われているのに闘おうとしない。登場人物たちの行動が必ずしも最善ではなく「あの時こうしていたら物語はどうなっていただろう」と思われるシーンがいくつもある。そこを素直に通らずに血迷った行動もするし、なぜそんな行動をとったのか考えさせられ、「そもそも最善の行動などないのではないだろうか」と気づかされる。現実はヒーローの活躍で簡単に好転するほどシンプルじゃない。

 


そんな「最善」について考えさせられる作品だが、ファイナルシーズンではなにが最善かさらにわからなくなる。窮地に自ら身を落としているようにみえる。だから彼らがどんな最善を辿るのか楽しみでしょうがない。

 


ファイナルシーズンはまだ完結しておらず評価できないのでサードシーズンから気に入ったセリフを2つ紹介する。

 


「死者に、次の世代に意味を持たせろ」

 


たまらなく嫌なことがあるとすぐに生きる意味を考えてしまう。嫌なことを「どうせみんな死ぬし」と逃避することもできるし、頑張りが無駄になったときは「生きててもなにも実らない」気がしてくる。だが社会の教科書を開いて見てほしい。土偶。不自然に配置された白骨の写真なんかが載っている。ゴッホも亡くなってから評価されたそうだ。未来にはなにが価値を持っているかわからない。5000年後にとっくに人類は滅亡していて、他の惑星から宇宙人が来たとする。その宇宙人が地中から電子端末を拾い出し、修理をして再起動を試みたらこの文章が現れるのかもしれない。その文章をみて標準的な地球人を思い描くのかもしれない。

 


あるいはすでに亡くなった方が残したものに命を吹き込めるかもしれないし、ご存命の方の力にもなれるのかもしれない。その助けた人が突如現れた巨人を駆逐してくれるのかもしれない。

 

 

 

「人はなにかに酔っている」

 


技術は進歩してぼくの周りに巨人がいないが、なにかに熱中しないと生きていく自信がない。エレンは巨人の駆逐を目指して生きた。週末に予定があると活力になる。寝起きに麻雀をすると目覚めがよい。そしてなにより進撃の巨人によって心地いい眠りを破ってまで起きようとする。恋に生きる人も、会社でのし上がろうとする人も、馬の順位を予想する人も、テレビで笑いをとる人もそれらに酔っている。それ自体に大きな意味はないのかもしれない。しかし、あとから生まれてきたモノたちがそれに価値を見出して、また熱中していく。はやく進撃の巨人のつづきをみて酔っ払いたい。

すきなことと得意なことは違う

 


先日の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』にジェーンスーさんがゲストでいらっしゃっていた。ラジオCM等でスーさんの名前をよく耳にしていたのでどんな人物なのか気になっていたが、放送を聴いていると人生相談で有名な方のようだ。会話の節々にこの人の信念のようなものを感じて好感が持てた。佐久間さんとスーさんは会話の中で

 


「すきなことと得意なことは違いますよね?」

 


と、話していた。スーさんは番組の企画で人生相談をするまで人から相談されることは少なかったし、佐久間さんも元々はテレビプロデューサーを目指していたわけではなかったそうだ。やってみてはじめて自分の特性に気づく。

 


しかし、"仕事にしても"すきなことや、"仕事にしても"得意なことがある人はどれくらいいるのだろうか。

 


ぼくは配属されて数日後にその仕事がすきなことでも得意なことでもないことに気がついた。

 


元から取り立ててすきなことなどなくイチ消費者として映画を観たり、ゲームをしたりしていたがそれを職として昇華する気持ちなどなかった。ただ新しいものが発売されたらやろうとしているだけでそこから踏み込む意思など持ち合わせていなかった。

 


仕事スケールでモノを考えてないので働くまでその事実に気づかないのである。

 


酒の席で「営業に向いてるよ」と言われたことがある。設計士をしているが、学校で1番できた教科は現代文である。そこそこ点数が取れていたし、これだけなら他の人に勝負できるぐらいには成績がよかった。自分の隠れた才能が見つかった、と思った。

 


仕事の適正にずっと悩んでいたぼくは会社を休みがちになり、とうとう営業職のオンライン面接までセッティングしてしまった。

 


午後6時のアポイントで人事部の方が自宅から面接を行ってくれるそうだ。ぼくはスーツに着替えて予定時間の5分前にリンクを飛んだ。zoomのような画面で、縦に二分割された左にぼくが映っていて右は真っ暗である。しかしこういったサービスには大抵、カメラをオフにする機能がついている。まだ人事部の方がいらっしゃってないのか、カメラをオフにしてぼくを観察してるのかがわからない。ぼくはなにもできずに自宅の見慣れた白い壁を美術館の絵画のようにじっくりとみた。一面が白いので作者の意図は伝わってこない。それでも悪い印象を与えないように壁を見続けた。

 


時間になると、40代ほどの男性が画面の右側に現れた。無地の壁からも作り手のメッセージを読み解きそうな思慮深そうな人物である。背景は自室だろうか、和室が映り込んでいた。

 


事前に知らされていた質問に用意された答えをしたが、聞き返されて、自分の答えを解説したがそれでも意図が伝わらずに終わった。一通りの質問をし終えた男性はぼくの寸評をはじめた。

 


「回答がまわりくどい。営業になりたければ一言で端的に話さないといけない」

 


と言われた。結果は後日連絡する、と伝えられたがひとつも褒められていなかったので結果のメールが届くまでの数日間は全くの無意味なものであった。たしかに現代文は得意だが、それ以上に人見知りだった。諦めがついたのもこのときである。自分には黙ってパソコンで作業をした方がよいと思えた。

 


それから時間はかかったものの前向きに仕事に取り組めるようになった。自分で揃えた情報を元に絵を描いて伝える。仮に文句を言われてもまわりくどいことなど言わずに「強度計算した結果は大丈夫でした」と数字で逃げることができる。得意なことはまだぼくの勤続年数では判断できない。そして"仕事として"得意なことやすきなことが見つけられる人の幸運に気づけた。どちらも見つけられない人がそれなりにいなければ働き方改革など起きない。みんな仕事など得意でもないし、すきでもない。それでもこなしている。壁を見続けなければいけない。見続けていれば前の住人の残していったシミぐらいは気づけるのかもしれない。

大脳と、人が群れる理由

 


テレビの深夜番組がすきだった。攻めた笑いや売り出し中のアイドルが観たくて夜遅くまで起きていた。ゴールデン帯の番組よりも番組の移り変わりが早かったが、面白いコンテンツを見逃したくなくて新聞のテレビ欄の下の方にある小さなスペースを常にチェックしていた。当然昼間は起きてることが出来ずに、中学生だったぼくは1時間目から7時間目まで寝続けるという偉業を達成した。あの頃はそれでいいと思っていた。しかしあの環境で眠っていたのは単に寝不足だったからというわけでもなさそうである。

 

 

 

TEDのスピーチが話題になった植松努さんをご存知だろうか。教育や夢について語ったスピーチだったが、野心よりもあの人の人柄のよさが伝わって優しい気持ちになる素晴らしいスピーチだった。あのスピーチから植松さんの動向を追っている。そんな中、あるインタビューで植松さんがこんなことを言っていた。

 


『そもそも人間が、なぜ群れを成さなきゃいけないかというと、人は大脳が発達したおかげで睡眠をとらないといけないんですよ。寝てるあいだは無防備で、一人じゃ生きていけないから、仲間がいるんです』

 


(https://logmi.jp/business/articles/324268)

 

 

 

深夜テレビにハマったときもなんだか孤独感を感じていた。実家で暮らしていたのに、である。クラスでうまく馴染めなかったからかもしれない。1人だから眠れずにテレビを観ていたのだろうか。教室にはたくさん人がいたから安心して眠っていたのではないだろうか。

 


今でもたまに寝れない夜がある。そういう夜は決まって不安な気持ちだ。睡眠なんて無防備なことができないほど気が張り詰めているのだろう。しかし次の日の仕事を考えて、睡眠不足を心配してしまう。そのまま眠れずに不眠のまま会社に向かったことも数える程度だがある。

 


どうせ寝れないのだからと諦めてその時間を楽しもうとドラマをみたり本を読んだが、そうすると寝れた。エンタメに救われて安心したのだろう。中学生の頃となにもかわっていない。それでも普段ははやく眠れるようになってはいる。孤独感が薄まっているんだろう。人が人を求めるのは自分のできないことを埋めるためだけではない。安眠するためでもある。

同棲かと思っていたがシェアハウスかもしれない

 


男女2名がともに暮らすとしてどう過ごすのが理想なのだろう。小さなベッドに身を寄せ合って眠るべきなのだろうか。向かい合って食事をしてその日の出来事を話し合うべきなのだろうか。ぼくらはどちらもしていない。

 


男女で眠りの周期が違うらしい。これは赤ん坊を育てるために女性が最適化されていて眠りが浅い状態が長く続く。周期が違っているので眠りに落ちそうなときに寝返りをうたれて目が覚めてしまうことが起こりうる。逆も然りだ。これでは2人とも寝不足のまま朝を迎えることになる。

 

 

 

実家で暮らしていた時は食卓の中心にテレビがあった。茶碗を左手に持ったまま身体はテレビのある右側を向いていた。半身でテレビを観ていたのでご飯の情報はあまり入ってこない。母親はさぞ寂しい思いをしたに違いない。所謂おふくろの味よりもバラエティ番組を覚えているので帰省したときに食べる食事が美味しくて驚く。

 


今でも食事のときはテレビをつけている。かわったことと言えばテレビの配置程度である。よく目にするのはドキュメンタリー番組やトーク番組だ。これらの番組は出演者の思考や生き様を覗けるからすきだ。彼らの言葉を取りこぼしたくないのでテレビを観るときは話かけられたくない。

 


それならばテレビを消して画面に映っている人ではなく彼女の話を聞けばいいのでは、と思うかもしれないがそうでもない。長年一緒にいるので大抵のことは知っているし、話しても同じような内容の焼き回しになる。どっぷりと構えて話すのならば外食するなりドライブに出かけるなりテレビのない空間にぼくを放り込めばよい。

 


同棲生活をすると、不思議なもので家事の担当が固定化されてくる。料理がぼくで掃除が彼女である。洗濯は干すのが彼女でアイロンをかけるのがぼくだ。残業をしない限り業務を任せることはしない。無理矢理に分業しようとすると引き継ぎがうまくいかない。例えば料理であればカレーのために買っておいたじゃがいもがポテトサラダとして食卓に並んでしまう。

 


そうして家での役割分担ははっきりと境界が引かれた。部屋で過ごす場所も定位置があって交わるのは少ない。睡眠は別々にとる。すきなテレビ番組を一緒に観ても番組の途中で席を立つ。なんなら違う部屋で過ごしているときに隣の部屋から聞こえる物音にビビったりする。そういった意味ではシェアハウスに近いし、実家とも言えなくもない。

チーズはどこへ消えたの説教くささ

 


チーズはどこへ消えた、という本がある。絵本ほどの薄さながら「人生観が変わる」との帯が巻かれていて気になった。当時のぼくは買おうか迷ったが絵本ほどのボリュームの本にまとまったお金を出す気にならずに購入を踏みとどまった。タイミングが違っていたら買っていたのかもしれない。この本が誕生祝いに弟から送られてきた。

 


3つ離れている兄弟でこちらからプレゼントすることはあるが、むこうからはほとんどない。今年から市役所で働いているが、役所の教育係は「人にモノをあげること」を教えてくれるらしい。珍しい出来事に軽く感動しながらもページをめくった。

 


この本は社会人たちが同窓会で旧友と再会し、その1人が感銘を受けた寓話としてネズミと小人の話をする。本書ではどのキャラクターに自分が近いか考えながら読むことが推奨されている。特にスポットを浴びるのが対照的な性格をしている2人の小人で1人は挑戦的で、1人は保守的である。この2人が物語の佳境で大きな選択を迫られるーー。

 

 

 

読み終わったぼくはいやな気分になっていた。表紙を開いたときの感動など消え去って本のアラを探し回っていた。とりあえず言えることは道徳の教科書みたい、ということである。選択肢を与えておきながら実質正解が用意されている。最初は4択問題だったのに2択になり、選択肢の1つが徹底的に否定されてるようにみえる。どのキャラクターに近いか選ばせておきながら自分の用意していた答えから外れると否定されるのである。食うために飼われた豚はクラス会議を行っても「生き物の尊さを知るため」と称して喰われるのである。そんなものは教師のエゴではないか。

 


そしてこの本では最初から最後まで寓話と一方の小人が誉められ続ける。仰々しい帯にはじまり、本編の前に寓話を褒めさせて、物語の字の文でも一方の小人を称賛させ、最後には級友たちが揃って称賛する。あげく、物語に深く心を動かされなかった読者を否定するような文言まであった。

 


評価とは実績や行いによって与えられるものであり、自分でしてしまったらそれはセルフプロデュースである。

 


ティージョブズだかマークザッカーバーグだかの有名なスピーチで(有名だが、誰が話したのかは覚えていない)、大学の卒業生に「ぼくは学校を中退したから既に君らの方がすごい。これからの活躍を楽しみにしてる」というものがある。本当にすごい人は一般人に合わせて目線を低くする。へり下ることでこちらのステージにお越しになって、親近感を湧かせるのだ。自ら下駄を履くものは、自分を大きく見せたい小人である。

会社とホラーゲーム

 


会社にいると叫びたくなる時がある。口はガムテープで止められたように感じるが自由に動かせる。なのに声はでない。ただ感情だけが鞭を打たれる。「仕事ができる」というマウントが鞭として実体を持ち、ぼくに降りかかる。痛みで声が出そうになるが出ない。

 


これが怖かった。ぼくの手には何も握られてないのに、鞭がしなっていることが。殴りかかろうとしても鞭が飛んでくるだけで近づけない。怖くて仕方なかった。

 


しかし、TEDのスピーチで「興奮と恐怖は同じものである」と学んだ。どちらも心拍数の上昇である。同じ現象を好意的に捉えるか、批判的に捉えるかの違いしかない。実家で自慰をしていた時の興奮は強かった。絶対にバレない状況でやる無味乾燥とした行為よりも、車の音に反応してカーテンを開けた、あの時の駆け引きの方が色気を持っていた。

 


或いは恐怖自体を好意的にみることもできる。新作ゲームを買って深夜に眠気と戦いながらやったホラーゲームよりも真っ昼間のオフィスの方が怖い。数千円払って本当に怖い良作なのか心配するよりも、確実に怖がらせてくれる上司がいる。しかも恐怖に堪えると賞金が貰える。そういった意味ではお金の駆け引きもあるのでギャンブル性も高い。どんどん仕事が好意的にみえてきた。失敗を恐れていたが、更なる恐怖を体験するためには高難易度のゲームをしなければならない。仮にうまくこなせてしまえば悪役たちから賞賛される。怖がらせようとしてた悪人が、である。そう思えばなにも失うものはない。恐怖エンタメも高難易度ゲームも楽しめる。ならばぼくには鞭など必要ない。手にしてしまえば怖さ半減で

自分の欠陥に気づけないと結婚したがらない

 


「結婚てのは女の子のためにするんだよ」と言われたことがある。ぼくもたぶんそうなんじゃないか、と思う。なぜ結婚したいと思うのだろう。お付き合いとはなにがちがうんだろう。連日のように考えてしまう。考え続けてしまうのはひょっとして心の奥底では結婚したいと思ってるからなのだろうか。

 


例えば今から40年ぐらい前であれば女性は結婚したら専業主婦になる、という形がほとんどであっただろう。1人がお金を稼いで1人が家事をする。そうしなければ回っていかなかないんだからそのスタイルをとらざるを得ない。

 


現在はどうか。食事を3食作りながら働いているがそんなに苦じゃない。部屋に物を少ないので散らかることもない。充分回っている。そもそも同棲することによって1人で生活できることが一人暮らしの時よりも更にハッキリした。人の目があれば家事をするのである。頻繁に人を家に呼べば部屋の清潔感は保たれる。

 


ならばなぜ神の前で永遠の愛を誓い合うなんて仰々しいことをするのだろうか。安心感が得たいのか。誓いを破棄するなんて罰当たりだぞ、と脅しながら関係性を継続しようというのだろうか。この契約をしてメリットを得られる人物がいるとすれば全く働かない者か、全く家事をしない者であろう。自分でしなければならなかった業務をパートナーにアウトソーシングして時間を生み出せられる。

 


だからテクノロジーが発展して、誰も彼もが1人で生活を営めるようになれば余計、誓いを立てづらくなるだろう。

 


あるいは、ぼくの場合は少年誌に載っているラブコメを読みすぎたのかもしれない。少年誌で展開される恋愛は、主人公が恋を成就させて終わるものがほとんどである。恋人になってからの話は本編に含まれていない。ハリウッド映画でさえ離婚した元嫁と復縁して終わり、交際期間が描かれないまま続編で再び別れることが常である。

 


ぼくの場合は本編が終わってエピローグが延々と続いているような状態だ。おそらく打ち切り会議では既に何度もぼくの作品が槍玉にあげられているだろう。

 


おそらくぼくは自分の欠点を完全に把握して、それを埋め合わせたいと願ったときに結婚したいと思うだろう。しかし26歳の働きざかりである。毎日、新しいことを学んで世界がどんどん広がっている。家で英語や機構学を学んで世界は更に広がる。型自体が変形しており、熱を加えてもどんな形に焼き上がるのか想像がつかない。だからぼくは型の出来上がりを待ちたい。おそらく今までにない形のいびつでありながら、見るものの目をひくふざけた型ができるであろう。