若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

アンドリューOスミス『アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書』のお金を使う能力

 


将来のことを考えて漠然と「お金持ちになりたい」と思って中学時代を過ごした。ぼくの地元は田舎なので土地が安く、同級生の家はほとんどが2階建てでぼくの家だけ平屋であった。父はそのことを気にしていたのか「いつか3階建ての家を建ててやるからな」と言って10年が経った。父は現在60代半ばである。小学生の頃は、古かったが立派な2階建ての家に住んでいて、その家を離れるのが嫌で引っ越し先も元の家の近所にしてくれるようにねだった。

 


平屋に移り住むと、それを待っていたようにすぐさま重機がやってきてぼくの家を崩しはじめた。重機を止めたかったがどうすることもできずに、その様子をみてると、知らないうちにおじさんが隣に立っていた。面識はなかったがやるせない思いに襲われて「あの家はぼくの家なんだよ!」とおじさんに訴えた。おじさんは優しく話を聞いてくれた。おじさんと話していると重機の悲しい音が小さくなった気がした。会話が途切れると、おじさんは「そういえば、ぼく?おうちの電話番号は分かるかな?」と訊かれた。最初の2桁を教えたところでなんだかダメなことをしている気持ちになって「そういえば用事があったんだ!」と走って逃げた。

 


今思えば、クラスメートに平屋に住んでいる友だちもいたし、アパート暮らしをしているものもいたが、特に仲のよかった友だちが立派な家に住んでいたので自分は「お金がない家の子」だと思っていた。そんな思いから「お金持ちになりたい」と思うようになったのだろう。

 


アンドリューOスミス著の『アメリカの高校生が学んでいるお金の教科書』はそんなお金のことを学べる。日本では経済学部に入らないとお金のことは学べないので、修学旅行に行けば木刀を買って部屋のインテリアにする。ぼくはキーホルダー型の小刀で抑えたのでセーフだ。あるいは資格の勉強の代表例に簿記が登場する。それほどお金の知識には需要があるのである。

 


本書の中にこんな言葉が書かれていた。

 

 

 

『今日お金を使わないということは、明日お金を使う能力が手に入ることを意味する』

 


お金の価値は物価によってかわるがぼくが生きている内はお金が腐ったりすることはないだろう。すなわち蓄えておくことができる。

 

 

 

職について、奨学金の返済に追われながらも生活していけるだけのお金を稼げるようになった。父が建てたがった3階建ての建物の一室を借りて住んでいる。しかし、お金に困っていた期間が長すぎてお金を浪費することを極端に恐れるようになってしまった。自分の蓄えを削ってまで欲しいものがないのである。

 


先日、思い切って無印良品で、ちょっといいタオルを値段も見ずにたくさん買った。風呂上がりにそのタオルで身体を拭くとなんとも贅沢な気分になるが、身体から水滴がなくなる頃には『お金を使いすぎてしまったのではないか』と自責の念に襲われる。

 


度重なる二日酔いのせいで健康にも目覚めてしまった。下手に長生きしてしまう可能性もある。かつて憧れた『お金持ち』は多分『不安に襲われずに不自由なく生きられる』と言った意味合いが強い。もちろんぼくはお金持ちではない。普通に生きていくために我慢して、お金持ちになるためには更なる我慢を強いられるだろう。

 


『今日お金を使わないということは、明日お金を使う能力が手に入ることを意味する』

 


いつか欲しいものができたら、使えるように一応貯金はしている。しかしその『明日』はいつやってくるのだろう。まさかタオルを買った日のことではあるまい。

ブランディングとコールアンドレスポンス

 


美容院で髪を切ってもらってるときに会話が成立するようになってきた。相手が余程のおしゃべり上手なのか、ぼくも大人になれたのか。店員さんと歳が近くなったのもあるのかもしれない。ぼくが26歳で担当の男性は30ちょいだ。将来のことを考えると聞きたいことが溢れてくる。前に髪を切りに行ったときは家の話になった。店員さんは今年、思い切って家を購入したそうだ。ローンを組んで収入から返済のお金を捻出しなければならない。まだまだ自分には先のことだと思っているので、ぼくにとっては月に行くくらい現実味がない。

 


賃貸を探すのならこれまでの経験でなにを検討するべきかわかるのだが、一軒家を購入するとなると判断材料がまずわからない。職場へのアクセスを考えるのだろうか、デザインが先行するのだろうか、さらに将来のことを考えて、近くに学校がある物件を探すのだろうか。とりあえずブラックジャックの家の立地が最悪なのだけはハッキリしている程度である。

 


店員さんは「立地と値段が決め手だった」と説明した。家の値段。これもまた謎に包まれている。聞けば土地代がかなり高くて大手不動産業者であると更に値が張るそうだ。大手の会社を利用すれば細やかなサービスを受けられるそうだが、なによりも服のようなブランドの価値が大きいそうだ。CMで流れているような会社で家を建てれば、家にも箔がつくってもんだ。

 


髪を切り終えて帰宅するとスマートフォンに通知が入った。2年前のフェスの映像をネット上で配信しているそうだ。ライブをみるのは数年ぶりである。アイドルがフォーメーションをかえながらダンスをしていた。家でライブをみるとどんな変なノリ方でも引かれないのでオススメである。頭を縦に振りながらタブレットに見入る。タイムテーブルをみると普段聴いているアーティストたちが何組か出演することがわかった。数時間に渡って配信され、度々映像がカクつくほどの盛況ぶりであった。すきなアーティストを見逃したくないのでタブレットから目を離さないようにしていたが、疲れなのか、集中力が切れたのかパフォーマンスに乗り切れていない自分がいた。

 


会場にいる人たちは大盛り上がりなのに自分だけが浮いている。急に怖くなって、なぜそんな感情になったのか分析してみた。ボーカルのコールアンドレスポンスに戸惑っているのではないだろうか。フェスの映像であるので一定数はじめてパフォーマンスを観に来ている人がいるのに対して「お前ら」と呼び、声が出てないとなじる。この光景がぼくにとって異様に思えた。いや、なにも異様ではない。ボーカルが「お客様」というのも変だし、敬語で「お手数ですが盛り上がっていただけないでしょうか?」と尋ねるのも歯切れが悪い。観客もタオルを振り回す手を止めて「そんな、ご丁寧にどうも」となるだろう。ただ「はじめまして」の方に威圧的な態度をとれる人間をみて「何様なんだ」と思ってしまったのである。音楽番組を観なくなってサブスクで楽曲だけをノンストップでかけて歌唱中以外の部分を久しぶりにみたときに違和感を抱いてしまった。YouTubeSNSでみたサンボマスターさんのコールアンドレスポンスには熱くなれたのに何故、こうもモヤモヤするのか、ファンでもなんでもない人の振る舞いだからこんな気持ちになるのか。でもパフォーマンスの凄さは伝わってくる。お客さんも熱狂してるし、涙を流してる人もいる。

 


おそらく、凄い人たちが自分の凄さを誇示しなければ観客たちに感動を与えることはできない。よっぽど一流の人でなければ淡々と曲だけをするのみではショーにならない。お家も人生に1回かそこらの大きな買い物である。簡単に買えてしまえば気に入らなくなったときに容易に他所へ移り住んでしまうだろう。要はブランディングだ。初対面でも「お前」と呼ばれて違和感を抱かせないカリスマ性がなければ売れることなどできないのである。コロナでライブが思うように行えずに収入面で厳しい中、世間の多くの目があってもお客さんを煽って、素直にお客さんがいうことをきくアーティストがどれほどいるのだろう。SNSからバズった曲で名前が売れる時代である。親しみやすさも人気の一要素に間違いなく数えられる。ひょっとすると今、アーティストの振る舞いはとても難しくなってるのではないだろうか。

 


そんなことを思っていたらすきなアーティストの映像もノリ切れずに終わって強烈な眠気に襲われた。静かに耳元で子守唄を歌ってくれるアーティストを探したい。

砂村かいり『炭酸水と犬』の「すき」の言語化

 


お付き合いをしていると「あたしのどこがすき?」と訊かれる。自分を本当に好いているのか不安になってのことなのか、自己肯定感を高めたいのかはわからないがふとした瞬間に訊かれる。パッと思いついたものを口にすると、ふざけてるのか、と怒られる。全部などと言った日には本当にすきなのかと怒られる。「あたしのこと、どれぐらいすき?」も同じような問題を孕んでいる。

 


これらの問題に触れているのが砂村かいりさんの小説『炭酸水と犬』である。主人公の女性は、付き合ってる男性が浮気していることを知る。その男性は変に真っ直ぐな性格をしており「浮気相手は浮気相手ですきだから(主人公に)会わせたい」と言う。男性への好意が捨てきれない女性は渋々浮気相手と会うことになるのだがーー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここからは本作のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作では冒頭に触れた「すきの言語化」をさせて自分か浮気相手のどちらをより好いているかを比較する場面がある。2つのすきな理由を訊いた上で主人公は以下のように感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『わたしは気づいていた。言葉にできないのに惹かれることのほうが、恋の本質に近いのだということ。本当の「好き」はきっと本能的なもので、説明なんかできない』

 

 

 

「すき」という気持ちをバシッと定量的に表現できる人間がどれほどいるのだろう。こういった問いを投げかけてきた質問者を納得させるにはなにを話せばいいのだろうか。我々ヒトは遺伝子的に考えるとチンパンジーとほとんど同じ生物である。チンパンジーでさえほぼ同じなのに人間同士でどう差異をつければいいというのだ。カレーとラーメンぐらい違えばもう少し簡単に結論を出せるかもしれないがテレビでラーメン特集をしていればラーメンが食べたくなるし、近所の家からカレーの匂いがすればカレーが食べたくなる。すきな食べ物を答えるのでさえ難儀するのに、同じ材料の同じ製法で作られた有機物を「どちらがどうすきか」など解答するのは至難の業である。お土産の鳩サブレの中から好みの鳩サブレを見つけるのとなにが違うのだ。そんなものはどれも砂糖味だ。なにも考えずにコーヒーと一緒に食べさせてくれ。

 


確かに主人公と彼氏のなれそめは素敵だと思う。しかし浮気が発覚した後の煮え切らない様子に一切の好感が持てないし、そんな彼に浮気の話を避けて、苦しい想いをしながら関係を断ち切らない主人公はさらに理解できない。関係を終わらせられないほどすきなのかもしれないが、そんな彼氏のどこがすきなのか、これを作者自身も上手く言語化できてないように思う。プロの小説家を持ってしてもそれを描き切るのは至難の技なのだろう。

 


ぼくは単純なので、会社で旅行のお土産を貰えばその人のことがすきになるし、スタバのカップにメッセージが書かれているといちいちうれしくなる。70億人の人たちをすきな順に並べようとしても毎秒順位の入れ替わりがある。彼女のことを考えてることもあれば、両親が不自由なく暮らせているか心配になることもあるし、何年も会ってない友人が今なにをしているのか気になることもある。「人間がすき」では駄目なんだろうか。駄目なんだろうな。

 


喧嘩をしたときに「この人といつまで関係を続けようか」と考えてしまうことがある。そのときに足を引っ張るのが『すきな理由』なんだろう。そのときは「気分屋で一緒にいて飽きない」との考えが浮かび上がった。気分屋というか彼女の行動を予想できない点に惹かれているのだと思う。しかし行動を予想できる人などいるのだろうか。「行動が予測できない」だけクローズアップしてしまえば犬の方がぼくと付き合うのに向いている。こんな言葉しか思い浮かばないから彼女は納得しないのだろう。

結婚式のケーキの意味

 


アラサーにもなると結婚の話を振られることが多くなる。というかこっちからも結婚のことを聞いたりするので、そりゃ多い。周りが結婚しはじめて現実味が増して興味が湧いたのだろう。なぜこの不安定な時代に結婚したのだろう。なにがきっかけだったのだろう。同棲と結婚は違うのか。関係性に変化はあったか。疑問は尽きない。

 


先日のオードリーのオールナイトニッポンにて若林さんが「知り合いのディレクターの司会をした」と話していた。そこで知ったのだが、結婚式のケーキは「ケーキ入刀」をしたのちに食べさせ合う、この行為にあるメッセージが込められているそうだ。

 


男性から女性に食べさせる意味は「メシに困らないくらい稼ぐ」という意思表示であり、女性から男性に食べさせる意味は「美味しいご飯を振る舞う」という意思表示だ。普段からテレビの仕事が多い若林さんはテレビの気遣いが抜けずに『今どきこんな男女差別的なことを言っていいんだろうか』と思ってしまったそうだ。

 


ぼくは同棲しながら働いて毎食の料理を用意している。稼ぎと食という意味で、ケーキに込められた想いが既に1人で完結してるのである。結婚式のケーキ入刀にどう臨めばいいのだろうか。ぼくの彼女も自身の稼ぎでケーキを買って頻繁に食べている。男性の役割を既に果たしている。ケーキ入刀が時代にマッチしなくなっているのかもしれない。では結婚はどうなのだろう。ケーキ入刀のようにその位置づけはかわっているのか。ケーキよりも和菓子が美味しくなってきたのだが結婚を急いだ方がいいのだろうか。疑問がふえた。また結婚の話をすることになりそうだ。

『新世紀エヴァンゲリオン air/まごころを、君に』で考えたセカイの正体

 


シンエヴァンゲリオンを観た何人かは旧劇を再評価して「旧劇こそラストに相応しい」とした。単なる懐古なのか、新作に便乗したアクセス数稼ぎか、新たな傑作を素直に評価できない天邪鬼な反応なのかはわからない。元々、旧劇版はアニメ版のラスト2話を作り直したものである。しかしアニメ2話のスケールとはとても思えないえぐみと衝撃を持っている。それ故、上映から何年も経ち、更に作り直しが加えられた作品を観せられても、おいそれと納得できないほどの強度を持つ。

 


こちらの記事では『新世紀エヴァンゲリオン  air/まごころを、君に』のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この作品は所謂『セカイ系』である。ショッキングな出来事がシンジくんを襲い、それらと闘う中で、世界の命運を預けられる程の力を手にする。目の前に地球をポンと差し出されて「お好きにどうぞ」と言われたらぼくらはどうするだろう。ぼくは宇宙飛行士でもなんでもないので、本当に地球が丸いのか見たことがないし、機械にプログラムされた世界の中で動いてるだけなのかもしれないし、この世界は見知らぬおじさんの夢なのかもわからない。正体はわからないが、この世界によって感情はめちゃめちゃにされた。内臓が飛び出るくらい嬉しかったこともあるし、消えてなくなりたいぐらい悲しいこともあった(今思ったらそれほど感情的になる出来事ではなかったのかもしれない)。それをなんとでもできる立場に置かれるのである。

 


シンジくんは、地球上の生命体を1つに統合することを持ちかけられる。他者がいなければなんの否定もない。自分の醜さや身勝手な行為を気にする必要はなくなる。生き永らえるために媚びを売ることもしないでいいのだ。自己と他者の境界はなんだろう。なにをもって「自分らしい」とするのだろう。シンジくんは命を懸けてエヴァに乗ることが「自分らしさ」なんだろうか。自分に自信が持てずに、必死こいて働いて、勉強するのは「自分らしさ」を確立できずに他者の中に埋もれてしまうことを恐れているからだろうか。何者かになりたいという欲求は自己を確立したいから湧き出る感情なのだろうか。

 


他人は制御できない。自分は寝たいときに眠れられるし、爪が気になれば切れる。勝手に上司の爪を切ろうとすれば激怒され、酷ければ部署異動である。だからこそ他者に評価されることは清々しくて自己が認められたような気になる。そして彼らが「ぼく」に求めるコトを列挙し、それこそが「ぼく」なのではないかと錯覚させられる。しかし、求められている像から外れれば失望されるのである。

 


さて、目の前に地球がある。シンジくんは他者と「また会いたい」と思って統合を拒んだ。地球には否定もされたし、「ぼく」を演じきるように強制もされた。隕石が降ってきて人類みんな仲良く居なくなれば辛い思いをしなくていいかもしれないと考えたこともある。実際には目の前に小型の地球なんてないし、この文章を打っているダークモードで画面が黒くなっている液晶があるのみである。しかし、今生きているこの状況は、死と生を天秤にかけて生きることに傾いている結果ではないのだろうか。クソみたいな世界で、心ない人がいて、それでも生きている。生きていようと思える。それがこの世界の正体である。

アニメ『エヴァンゲリオン』で考える現在の正体

 

 


小学生の時だったと思う。お母さんがエヴァンゲリオンのビデオを借りて、ぼくにみせるでもなく観ていた。当時、戦隊モノのロボットしか知らなかったぼくは、ロボットなのに(正確にはエヴァンゲリオンは人造人間である)、吠えて、パーツが欠損すると血が噴き出すのをみて、アスカのように「気持ち悪い」と思った。お母さんが自らチャンネルを手に取って番組を変えることなどなかったので、はじめてあの人が能動的に選んだ作品(だと思ったの)がエヴァンゲリオンだった。子ども心に「悪趣味」だと思った。

 


それからアニメ版のエヴァを2周するに至ったのは大学生の頃である。観た上での判断なのだが、シンジくんをはじめ主要キャラクターたちの、14歳を超えた後に観た方が楽しめる作品ではないだろうか。14歳で二次成長期を迎えて筋肉量が増え、異性を意識しはじめるし、やり場のない衝動を抑えるのに必死だった。あの頃のエネルギーはすぐに制御の効かなくなるエヴァンゲリオンのようだった。

 


シンエヴァンゲリオンを観て、もう一度頭からエヴァンゲリオンを観たくなった。3周目に感じたことをここに書いていく。

 

 

 

ここからはテレビ版エヴァンゲリオンのネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず驚かされるのはシンジくんが思いのほか明るいというところである。ミサトさんにツッコむし、皮肉も小言もいう。内気だと思っていた少年は身に余る重圧に耐えながら自分の責務を全うしようとする。今まで思っていたシンジくんの印象は弱虫な少年だったのだが自分よりも随分勇敢な戦士だった。彼が精神的に追い込まれるのは意外にも全ての使徒を倒した後である。最後の使徒のことを考えるとあんな精神状態になるのも充分わかる。

 


自分の中で大切にしていたものがなくなった時にどう心を保てばいいんだろう。NARUTOを読んで育ったので「俺の存在は復讐を果たすことだ」と刷り込まれている。それによって小さい頃から生きる意味について考えるようになった。どう考えても楽しいことより辛いことの方が多い。しかも辛いこと1個に対して楽しいことが20個ないと心のつり合いが取れないらしい。そうなればどう足掻いても不幸せを感じている時間の方が長い。そこまで辛い思いをして何故生きなければならないのだろうか。

 


ゲームの実況動画を観ると自分よりも遥かに上手い人が、どう操作したらそうなるのかわからない動きをしていたりする。動画やソーシャルメディアなどあらゆる分野で自分より優れた人が見つかる。自分は必要なんだろうか。

 


シンジくんはエヴァンゲリオン初号機パイロットである。誰よりもエヴァンゲリオンをうまく動かせられる。そして何度も葛藤があった上で乗り続けているのは彼がそう選択したからだ。「人類がどうなっても知ったこっちゃない」と隠居生活をしてもよかったはずだ(ネルフに追っかけ回されるだろうが)。ぼくも自分が正解だと思った選択肢を選んで25年間生きてきた。自分の中の正解だけ選んできたのでぼくが誰よりも正しい。だから他人をみても正解には思えないし、自分の正解を上回る他人の回答がいくつもある。現在は正解の蓄積である。だからなんで自分がこう生きてきたのかを教えたいし、もっと人の正解に至った理由を知りたい。

 


エヴァンゲリオンは血飛沫が飛び散る陰惨な作品だと思っていたが、とんでもない。現在を肯定する優しい作品なのである。

トムブラウンみちおさんにホッとさせて貰えた話

 


伊集院さんがトムブラウンの2人を「数年後に捕まっても驚かないし、捕まらなくても驚かない人」と称していた。捉えどころのない狂気を持っている2人だと思う。

 


先日、トムブラウンがオールナイトニッポンの週替わりパーソナリティをしていた。漫才やバラエティ番組での彼らを目にしたことはあるものの、素の彼等を知らない。「みちおがいいそうなことbot」のイメージが1番強くてネタの掴みばかりに目がいくが、どんな人たちがあのネタをつくっているのか気になって彼らのラジオを聴いてみた。

 


今回で3度目のオールナイトニッポンだそうだが、驚くほど真面目であった。過去の放送に反省をして、ラジオの放送がある深夜までなにをしていたか、なんて平和な話をしている。かと思えば「ソーシャルディスタンスの明確な基準があやふやだから」と無人島でライブをすることを発表した。オペラグラスが必要な距離で声も届かないため、希望者にはネタの台本を売ってくれるそうだ。ふざけた企画なのかと思ったがリスナーがイベントに際して「無茶な提案」をすると布川さんは強い言葉を使って怒っていた。怒り方が自然すぎて、ネタなのか本気なのかわからないところが怖い。

 


みちおさんはコロナ禍で、ウィスキーを冷凍庫で冷やして飲むことにハマっているらしい。冷たいウィスキーを飲みながら100円均一のアロマキャンドルを焚いて、ビートルズのレットイットビーでヘッドバンキングするそうだ。みちおさん自身もその異常性に薄々気づいているようだが、伝えたかったことは「コロナ禍で変になっても大丈夫だよ」と言うことらしい。

 


コロナ以前を思い出すのが難しくなるほどコロナ禍は続いている。当初はコロナが収まったらなにをしようか考えていたが、今はコロナ禍でもなにか楽しめることはないか、と考えるようになった。その結果、ひょっとすると一般的に見たら変なことをしてるかもわからないし、コロナ前のぼくがいまのぼくをみても変だと思ったりしないだろうか。お酒は控えてるのでヘッドバンキングに相応しい曲はわかってるつもりだ。