若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

ブレイク前のトムホランドにパパが送った激励の言葉

 

 


アベンジャーズスパイダーマンを演じているトムホランドの身体能力をご存知だろうか。彼はパルクールができるそうでビルの屋上で身軽に飛び跳ねていた。以前は大量の水が津波のようにトムに打ち付ける場面をスタントなしで演じた映像がネットにアップされていた。マーベル作品の中でも抜群の知名度を誇るスパイダーマン。その大役をオファーされる前は挫折の連続だったようだ。

 


トムはスターウォーズの新3部作のオーディションを受けていた。5次、6次オーディションまで順当に審査を通過したものの、演技経験のない女性スタッフが懸命にドロイドの演技をする姿がツボに入ってしまい、笑いを抑えることが出来ずに落選した。

 


他にも、『クリミナルタウン』という映画のオーディションを受けたトム。彼はこの映画が自身のキャリアに大きな意味を持つと考えて腰を据えて挑んだそうだが、役を貰えなかった。この落選はトムにとってかなりショックだったようで酷く落ち込んでしまったようだ。

 


この挫折にトムの父、コメディアンのドミニクはこんな言葉を贈った。

 


『息子よ、それ(拒絶も)もまた成功の一部なんだ。毎回毎回勝っていたら、勝つことが負けることと同じになってしまうかもしれない』

 


負けた経験、あるいは負ける可能性があるからこそ勝利に価値が出るのだ。

 


ゲームのジャンルの一つにFPSというものがある。first person shootingの略で一人称視点つまり、自分の視点が画面に表示されて臨場感のあるシューティングゲームになっている。このジャンルでここ数年の流行りがバトルロイヤルでオンラインのプレイヤーが生き残りを懸けて闘う。はじめた当初は敵を倒せただけで大喜びしたものだが、だんだん負けが込んできてイライラしてくる。それもそのハズでこの種のゲームにはキルレートという数字が存在する。これは相手を倒した数と相手に倒された数の比で倒した数と倒された数が同数、つまりキルレ1に到達すると中級者と見なされる。しかし、このジャンルが現れ出したのは10年以上前で10年近くこのジャンルを続けている猛者たちと互角に闘うにはそれなりの時間と勘が必要になってくる。

 


だからこそバトルロワイヤルで最終組まで生き残ってチャンピオンになると叫ぶように喜んだものだが、いつからか勝利画面をスキップして作業的に次の画面に進んでしまうようになった。負けた経験をイライラして記憶から消してはいけない。勝利の価値が薄まってしまうから。負けた途端にゲームを消してはいけない。勝ちを喜べる準備が整っているのだから。

 


↓こちらからトムホランドの挫折に関する元記事が読めます

https://front-row.jp/_ct/17433752

薄着だと鍵をしまい忘れる

 

 


ここ数日は春の訪れを感じる。数日前の休日も雨だったが気温は朝から15℃もあり、上着を着ることもなく散歩に出かけた。20分ほど歩き続けた頃だっただろうか。心地のよい気温で上機嫌に手を振りながら大股で歩いていると、ポケットのあたりに手が触れた。なんの感触もなかった。

 


散歩のときは特にどこか目的地を定めて歩くことは少なく、持ち物は財布と家の鍵とスマホ程度でなんとなく収納するポケットの定位置を決めていた。上着を着ないということはこのポケットの構成がかわることを意味する。ポケットの数は当然減り、ケツポケットを運用しながら持ち物を収める。そして家の鍵を担当するポケットに感触がないのである。

 


ニュース番組を観ていると強盗事件が増えたような印象を受ける(強盗事件の中には数万円しか盗めていない犯行もあり、その程度のお金のためによく捕まるようなリスクを犯せるなと思う。それほど彼らの生活は圧迫されているのだろうか。ぼくは大金が得られるチャンスがあっても犯行に及ぶ勇気はないが)。この時も強盗のニュースが頭をよぎり早めに散歩を切り上げようと考えたが、ちょうどその時聴いていたオードリーのオールナイトニッポンで若林さんのフリートークが盛り上がっていた。ぼくはトークをゆっくり聴きたくて、散歩を続行してしまっていた。

 


散歩の醍醐味はいくつもあるが、ぼくは公園を見つけた時にテンションがあがる。ブランコと滑り台とベンチの組み合わせがベーシックなセットだが、ここに謎の筋トレ器具であったり、花がたくさん生けられていたり、滑り台が山を模していたりとそれぞれに独自の世界観と遊び心を感じる。この日も新天地をフラフラしていたが、遠巻きに大きな木が見えた。これは公園や神社の目印であることが多い。どちらであっても嬉しい。木に近づくと周りが高い塀で囲われていて入り口が見つからない。塀に沿って歩いてもなかなか塀が終わらない。

 


かなりの距離を歩くと木で出来た階段を発見した。どうやら公園のようだったので階段を登る。階段や舗装されていない道を数分間歩き続けて山を下ると滑り台やベンチが設置されていた。ただの公園だと思っていたが巨大な自然公園のような施設であったようだ。目の前には見知らぬ土地が広がっており、かなりの距離を歩いたので帰り道の方向も定かではない。

 


周りを見渡すと、なんとなく見覚えのあるスーパーの大きな看板があり、そちらを目指して進むと知っている道に出た。知らない道をテキトーに歩いてたら知ってる道に繋がり「ここに出るのかー」と気づく。これこそが散歩の最大の醍醐味である。アクションゲームでいうところのボス戦までの道のりにショートカットのコースを見つけたときの喜びに近い。

 


散歩を満喫していたら足がパンパンになるほど歩いていた。このまま帰る元気もなく、通り道にあったコメダに来店した。たくさん歩いていたので体温が上がっていた。店員さんに『たっぷりアイスコーヒー』を注文する(コメダはサイズわけがスモールやトールではなく、"普通"か"たっぷり"なところがかわいい)。たっぷりのアイスコーヒーを飲みながら文章を書いて、水も飲んだ。すると流石"たっぷり"である。寒くなっていた。ホットコーヒーを追加注文して温まる。

 


コメダで休ませてもらって、残りの道を歩き切った。家のドアの前に立つと鍵が刺さったままになっていた。公園を発見した辺りからすっかり忘れていたこと、そして鍵をそのままにして気づかない自分に怖くなって急いで家に入り、玄関に鍵をかけた。あの時は、数秒前まで目視で空いてることが分かるような部屋だったのになにを急いでいたのだろうか。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』におけるシンジくんの処世術

 

 


2回の公開延期に油断していた。シンエヴァに向けてテレビ版を含めた過去作品を復習しようと思っていたのだ。それがどうだ、再発表された公開日がすぐソコに迫っていた。復習済みのファンには嬉しいニュースだろう。だがぼくは公開日にエヴァ熱をピークに持ってくために、あえて観ずにおいて置いたのである。完全な裏目。もう過去作品全てをおさらいするのは時間的にも体力的にも難しい。テレビ版の終盤や旧劇場版、あるいは新劇場版のQを立て続けに観て精神的に保っていられる自信がない。あれらはインパクト、あるいはメッセージ性の強さから適切なスパンを開けて然るべき作品だと思っている。

 


だから、ここからはじめます。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』。本作はアニメ版や旧劇場版を踏まえたヱヴァンゲリヲンシリーズのリブート作品である。序盤こそこれまでのストーリーをなぞっているだけであったが、徐々に過去作との差異現れ出して、古参のファンでさえ予測できない衝撃的なストーリーが(主にQで)展開されていく。

 


ここでは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』に関するネタバレをします。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


主人公の碇シンジくんは父親に呼ばれて職場に招かれた。その道中、使徒と呼ばれる巨大生命体が襲来。父親がシンジくんを自分のもとへ呼んだのは、人造人間ヱヴァンゲリヲンに乗って使徒と戦わせる為だった。そんな大層なことはできないと断るシンジくん。そこに満身創痍の女の子が医療用ベッドに乗せられたまま運び込まれてー。

 


内向きな性格のシンジくんの口数は少ないです。もっと本音を話した方がいいのではないか、とミサトさんからアドバイスを受けるとシンジくんは

 


「先生の言ってる通り(の最低限のことを)やってるんだからいいでしょ」と答える。黙って相手の言うことを聞くのがシンジくんの処世術なのである。これを作中では「ヤマアラシのジレンマ」を用いて説明している。身体に針を持ったヤマアラシは寒くて身を寄せ合って暖をとろうとしても針でお互いを傷つけてしまう。対人関係でも同じことが言えて不用意に他人の心に土足で踏み込むと思わぬ地雷があったりする。だから大人代表リツコさんは「大人になることはちょうどいい距離感を見つけること」としている。

 


ぼくはホンモノの針、つまり注射が非常に怖かった。あのとんがったいかにも恐ろしいビジュアルの物体が自分の体表を貫いて体内に差し込まれるのだ、怖くないわけがないだろう。会社の健康診断でも血液検査の時に本気で怖がっていたら幼子をあやすように「痛かったねぇ〜」と年配の女性がぼくの頑張りを評価した。

 


近づいてる意識はなくともほとんど事故のように人から精神的な針を刺されることもある。それは仕事が立て込んでいるせいかもしれないし、月の満ち欠けの問題かもしれないし、思い過ごしによることかもしれない。それが注射針のように実体を持って我々を怖がらさせる。一度刺された経験が、あるいは刺された経験の少なさから怖さは生まれる。

 


去年の終わりに血液検査をする機会があった。前日から注射が心配だったが、それ以上に朝ごはんを抜かないといけないことに不満があった。空腹で明らかに糖分が不足している頭で血液検査を担当する女医さんの前に座った。すると、針を怖がる前に既に針を刺されていた。早すぎて驚きと感動が怖さに勝った。それからも注射の機会があったが、もう恐れることはなくなった。

 


「大人になることはちょうどいい距離感を見つけること」である。しかし、こんなものはドラマチックな事件を待たずして見つかるものなのかもしれない。

東千茅『人類堆肥化計画』に感じる生

 

 


朝、散歩をしていると、目にする花が日ごとに増えていることに気づく。ぽつぽつと目に入ってきた色が、数日置くと、一気に形勢はかわって、新しい色に染め上がっている。白。桃色。紫。街に色が加えられた。公園に植えられた木々を見て心が洗われているが、この本を読むと、それも自然を切り開かれて作られたもの、あるいは、人為的に植えられたものだと思い出される。

 

東千茅さんの『人類堆肥化計画』 は、都会で『生』を感じられなくなった東さんが里山で農耕をして魅了される様子が描かれている。

 


本書には過激ともとれる文章で里山や農耕、あるいは死について書かれている。東さんの視点で料理について表現すると下のようになる。

 


『たとえば料理は、殺された動植物を切り刻んで煮たり焼いたりした挙句に皿に盛り付ける行為であるし、その動植物の死骸を友人や家族と談笑しながら食べること、あまつさえその写真を嬉々としてSNSに投稿することは背徳の極みである』

 


プロの料理人になると、「料理って『体験』だと思ってる」と言い出すし、テレビの大食い番組は死骸を食べ切れないほど積み上げて食べきれずに苦しむ様子をエンターテイメントとして放映する。それらに対してなんの疑問も抱かなかったし、なんならワイプに映る芸能人と一緒に楽しんでいた。東さんも『背徳』と表現しながらも、その背徳感に悦びを感じている。

 


だが、これらの行為に一切の背徳を感じていなかったらどうなる。ぼくはストレートに東さんの主張を受け入れることができなかった。現代社会では上手く異種生物の死が隠されているからだろう。ハンバーガー店のパティやナゲット等の加工肉に元の形状を思い起こされることはない。教育と称して豚を飼い、子どもに「食べるか食べないか」で議論させることは残酷なことだと思うし、なにより自分がそんなことを考えたくなくて目を背けていた。

 


考え出すと、食欲は減退する。ベジタリアンやビーガンの気持ちもわからないでもない。それでも植物だって生き物だし、動物の死骸から栄養を得て、枝葉を伸ばし花を咲かせる。伸びた草は草食動物が噛み潰し、逃げ惑う草食動物を肉食動物が追い回して食べる。ぼくらは柵にこれら全てを閉じ込めて、眺めたり、食べたりする。

 


多くの場合、食事の前に動植物は殺されている。だからぼくたちは死によって生かされている。

 

 

 

死骸を食して排泄して寝る。これさえをしていれば延命できる。これらをするために働くし、料理もする。食う寝る出す。それ以外は全て副次的なものであり、それらが出来るのであれば他の行為は必ずしもしなければいけないわけではない。

 


エンゲル係数」と呼ばれる数字がある。家計の支出の内、飲食費がどれくらいの割合であるのかを示す数だ。生活水準が低いとエンゲル係数が高くなるとされる。飲食費を除いた支出、つまりいい家に住んだり、デザインの優れた車に乗ったり、バンバン旅行に行けば、その人の生活が豊かだと言えるのだ。

 


バカ言え。どれも持ち合わせてないし、そこまでそれらに憧れたりしない。ちょっとだけだ。ほんのちょっと憧れているだけだ。なまじ余裕があるのでそんな副次的な幸せを考えてしまうのである。ぼくらはサイドストーリーの多さや作り込みでゲームの購入を検討するべきではない。本筋の食う寝る出すに重きを置いた方が有意義ではないか。

 


ぼくら人間は異種生物に生かされているのに同種間のコミュニケーションの方に目がいく。これは分業化が進んだせいである。メシを食べるためにはExcelにデータを打ち込んだり、人に指示を出したり、謝ったりしないと行けない。そして異種生物たちと離れすぎているためになかなかモチベーションには結びつかない。

 


Excelや指示や謝罪でいくらかのボーナスを貰うと、どうしても副次的な使い道を考えてしまう。しかし東さんはそんな派手な一発よりも農耕の日々の繰り返しを選んだ。

 

 

 

『単調なくりかえしには派手な一発にはないじんわりとした愉悦があることも知った』

 


また今日も散歩をした。シダレザクラが5分咲きを迎えていた。これがじんわりとした愉悦だろうか。ぼくは満開を待ちながら明日もこの道を歩くだろう。

イスラム教の女性が肌を隠す理由

 

 


年中マスクをしているおかげで外で極度に緊張することが減った。接客業をしていたことがあるのでわかるのだが、店員さんはそこまでお客さんの顔を覚えていない。というか、覚えられない。さらにマスクである。もうぼくの印象は限りなく薄いだろう。

 


海外の女性も年中ベールをしていたりする。これはイスラム教の女性のようで全身黒ずくめの服を着て、口もとはヒジャーブという布で隠されている。あれは「女性を性的な目から守るためにさせている行為」だそうだ。夫以外の人には顔や髪を見せないらしい。顔はわからないでもないが、髪もなのか、アチラの方々はなかなか特殊な好みをしているようだ。日本にも平安時代はすだれのようなもので顔を隠して、すだれ越しに男女がコミュニケーションを取っていたそうだ。現代でもテレビやネットの企画で『チャットで盛り上がった男女が会うまでお互いの姿を見せずにお互いの本質をすきになってから会えば真実の愛が結ばれる』というものをやっていたりする。参加者を見てみると20代前後の若めな人選であまり、観る気は起きないのだが、彼らは本当に真実の愛を見つけられたのだろうか。

 


同世代の恋愛の話を聞いてみると、マッチングアプリを発端にしているケースがかなりの割合になってきた。ぼくはアプリを使ったことがないのだが、加工された写真や、自分が最大値よく見える画像と実物にどれぐらいギャップがあるのだろうかと気になる。そもそもラインのようなチャットを得意としてないので、チャットから盛り上がって実際に会ってみようというシチュエーションを想像するのが難しい。そもそもボディランゲージなど非言語によるものが人の印象のほとんどを占めるそうだ。情報源のほとんどを得られずに見ず知らずの人に会う、この度胸に尊敬する。テレビでは未だに友だちの紹介や会社の繋がりから恋愛に発展するケースが多いと報じていた。マッチングアプリからの恋愛が多い、と感じていたが、周りの事例は特殊パターンであり、実際はそんな途轍もない度胸などほとんど人が持ち合わせてないのではないだろうか。アプリのアイコンはヒジャーブとかわらない。

映画『小悪魔はなぜモテる』における嘘の罰

 

 


先日、101匹わんちゃんの悪役、クルエラを主役に置いた映画『クルエラ』の予告映像が公開された。クルエラ役の女優さんがとても素敵だが、なんだか見覚えのある。詳しくみてみると、なんとエマストーンである。アカデミー賞女優である彼女を認識できないほど見事な特殊メイクだった。『マレフィセント』のアンジェリーナジョリー然り、『パイレーツオブカリビアン』のジョニーデップ然り、ディズニーの特殊メイクは素顔を思い出せなくなるほど強烈なのに、圧倒的な存在感で演じてる俳優さん、ではなく映画の登場人物としてのキャラクターをちゃんとすきになれる。脅威の技術力である。ぼくはディズニーの名作映画の実写化には否定的であるが、あそこまでのメイクをみせられると、どうしても気になってしまう。

 


そんな『クルエラ』で素敵な姿をみせてくれたエマストーンが女子高生を演じるのが、今回感想を書かせていただく『小悪魔はなぜモテる』である。

 


この世界のエマストーンには友だちが1人しかいないようだが、校庭でド下ネタを大声で言い合って笑う、素敵な関係である。下ネタを言い合う仲だが、実際にはそういった経験のない2人。エマは見栄から「経験済み」だと嘘をつくが、たまたまお喋りな同級生にこの嘘を聞かれてしまい、全校にその噂が広まってしまう。噂に尾ひれがつき、「エマはお金を払えばヤラせてくれる」といったものに発展しーー。

 

 

 

 

 

 

 


ここからは本作のネタバレをするのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エマが遊び人」だという噂が広まると、途端に男子生徒に声をかけられるようになってモテ出す。一種のブランディングだと思うのだが、日本では真逆のブランディングが行われているように感じる。アイドルは事務所によって恋愛させてもらえず、その事実が発覚すると謝罪会見をしたり、坊主にしたりする(坊主のパターンは1例しか知らないが)。この国では未経験であることの方が価値があるのだろうか。共学の学校で男子が大声で下ネタを言えば、恥ずかしがるフリをするし、恋愛経験は少なめにサバを読む。芸能人に限って言えば、自分の応援している方に恋人がいると冷めてしまうからそういった発言を控えるのだろうか。恋人がいてもいなくてもファンには関係ない気がするのだが、もしかして、なんらかの偶然で付き合えると信じてるのだろうか。

 


ぼくは男女に限らず、遊んでいることを公言している人がすきだ。公言してないが、遊んでいることがバレてる人でもいい。元ジャニーズのあの人の遊び方なんかカッコいいとすら思う。自分にはもう遊ぶ元気はないが、生への活力というかエネルギーを感じる。彼に限ってはそういったコトが発覚した後の方が彼をすきになった。だから、バラエティでもっと活躍をみたいのだが、もうテレビは積極的に彼を起用する事はないだろう。また、一流のテレビスタッフと、破茶滅茶なあの人との映像を日曜の夜にみて笑いたい。

 


この映画で印象的なセリフがある。

 


『嘘をついたのは本当の自分ではない。

だけど、嘘をついた罰は本当の自分が受ける』

 


人の前で嘘をつくのは清くて強い、それこそ特殊メイクをしたような自分である。しかし、その責任を負うのは勝手で弱々しい自分なのである。SNS絶世期の今、本当の自分で過ごすには少々人の目が多い。自分を映す解像度はどんどん上がり、毛穴を隠すためにメイクをしなければ外には出られない。そして、そのメイクの評価を受け止める力は地肌にはもうない。煌びやかな化粧品売り場を見るたびに男の気楽さに安心してしまう。

謎の手の震えの正体

 

レジに商品を出そうとすると、手が震えたことがある。商品自体は片手で持てる重量のもので、パンパンに詰まった米の袋だったわけではない。はじめてこの症状が出たのが当時大学生の時で店員さんが女性だったから緊張して震えてしまったのかと思って恥ずかしくなった。

 


また手が震えた。そのときは飲酒量が増えていたので、とうとう中毒になってしまったのか、と不安になった。

 


この1ヶ月。服用中の薬とお酒の飲み合わせが悪いということで一切の飲酒を控えている。昼から友だちと飲み会をしたがぼくだけノンアルビールでクタクタになった。その間もたしか一度だけレジで手が震えた。もしかして…、と思いネットで検索してみるとどうやらカフェインでも手が震えることがあるそうだ。はじめて手が震えたときにはエナジードリンクを度々飲んでいたし、たらふく飲んでいたお酒はコーヒーにかわった。

 


カフェインというものは不思議なものでぼくのような無気力な人間を猛烈にアグレッシブにさせる。会社になんだか行きたくない日、すなわち毎日だが、道中のコンビニでペットボトルのコーヒーを買っている。すると、なんだか自分が外交官にでもなったかのような気分になって仕事に立ち向かえる。

 


ぼくはカフェインが効きやすいようで軽く腹痛になったり、酷いと、えずいたりする。そして5時間ほどでカフェインの効果は抜けてずっしりとした疲労感に包まれる。しかし、外交官(のような心持ち)になれるのでもう手放せない。アルコール中毒かと思ったらカフェイン中毒である。量は日にスタバのベンティーサイズ一杯ぐらいなのだがこの量が適量なのか、過剰なのかわかりかねている。ただ、カフェの店員さんの前で手が震えてしまったときにどう説明しようか、というものがひとまずの悩みである。