若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

東千茅『人類堆肥化計画』に感じる生

 

 


朝、散歩をしていると、目にする花が日ごとに増えていることに気づく。ぽつぽつと目に入ってきた色が、数日置くと、一気に形勢はかわって、新しい色に染め上がっている。白。桃色。紫。街に色が加えられた。公園に植えられた木々を見て心が洗われているが、この本を読むと、それも自然を切り開かれて作られたもの、あるいは、人為的に植えられたものだと思い出される。

 

東千茅さんの『人類堆肥化計画』 は、都会で『生』を感じられなくなった東さんが里山で農耕をして魅了される様子が描かれている。

 


本書には過激ともとれる文章で里山や農耕、あるいは死について書かれている。東さんの視点で料理について表現すると下のようになる。

 


『たとえば料理は、殺された動植物を切り刻んで煮たり焼いたりした挙句に皿に盛り付ける行為であるし、その動植物の死骸を友人や家族と談笑しながら食べること、あまつさえその写真を嬉々としてSNSに投稿することは背徳の極みである』

 


プロの料理人になると、「料理って『体験』だと思ってる」と言い出すし、テレビの大食い番組は死骸を食べ切れないほど積み上げて食べきれずに苦しむ様子をエンターテイメントとして放映する。それらに対してなんの疑問も抱かなかったし、なんならワイプに映る芸能人と一緒に楽しんでいた。東さんも『背徳』と表現しながらも、その背徳感に悦びを感じている。

 


だが、これらの行為に一切の背徳を感じていなかったらどうなる。ぼくはストレートに東さんの主張を受け入れることができなかった。現代社会では上手く異種生物の死が隠されているからだろう。ハンバーガー店のパティやナゲット等の加工肉に元の形状を思い起こされることはない。教育と称して豚を飼い、子どもに「食べるか食べないか」で議論させることは残酷なことだと思うし、なにより自分がそんなことを考えたくなくて目を背けていた。

 


考え出すと、食欲は減退する。ベジタリアンやビーガンの気持ちもわからないでもない。それでも植物だって生き物だし、動物の死骸から栄養を得て、枝葉を伸ばし花を咲かせる。伸びた草は草食動物が噛み潰し、逃げ惑う草食動物を肉食動物が追い回して食べる。ぼくらは柵にこれら全てを閉じ込めて、眺めたり、食べたりする。

 


多くの場合、食事の前に動植物は殺されている。だからぼくたちは死によって生かされている。

 

 

 

死骸を食して排泄して寝る。これさえをしていれば延命できる。これらをするために働くし、料理もする。食う寝る出す。それ以外は全て副次的なものであり、それらが出来るのであれば他の行為は必ずしもしなければいけないわけではない。

 


エンゲル係数」と呼ばれる数字がある。家計の支出の内、飲食費がどれくらいの割合であるのかを示す数だ。生活水準が低いとエンゲル係数が高くなるとされる。飲食費を除いた支出、つまりいい家に住んだり、デザインの優れた車に乗ったり、バンバン旅行に行けば、その人の生活が豊かだと言えるのだ。

 


バカ言え。どれも持ち合わせてないし、そこまでそれらに憧れたりしない。ちょっとだけだ。ほんのちょっと憧れているだけだ。なまじ余裕があるのでそんな副次的な幸せを考えてしまうのである。ぼくらはサイドストーリーの多さや作り込みでゲームの購入を検討するべきではない。本筋の食う寝る出すに重きを置いた方が有意義ではないか。

 


ぼくら人間は異種生物に生かされているのに同種間のコミュニケーションの方に目がいく。これは分業化が進んだせいである。メシを食べるためにはExcelにデータを打ち込んだり、人に指示を出したり、謝ったりしないと行けない。そして異種生物たちと離れすぎているためになかなかモチベーションには結びつかない。

 


Excelや指示や謝罪でいくらかのボーナスを貰うと、どうしても副次的な使い道を考えてしまう。しかし東さんはそんな派手な一発よりも農耕の日々の繰り返しを選んだ。

 

 

 

『単調なくりかえしには派手な一発にはないじんわりとした愉悦があることも知った』

 


また今日も散歩をした。シダレザクラが5分咲きを迎えていた。これがじんわりとした愉悦だろうか。ぼくは満開を待ちながら明日もこの道を歩くだろう。