排泄による他人と自我の芽生え
一人暮らしをはじめてから人に感謝することがふえた。あらゆることを自分でしないといけないのでそれまで意識しなかったことに目が向き、できることとできないことがわかるようになった。一人になるということは他人を意識しはじめることである。大学生活をはじめてから1人になったと思っていたがそれよりも遥か以前に1人を経験していた。排泄である。
なにがキッカケかは忘れたがリーディングリストに『排泄』に関するWikipediaが含まれていた。排泄時はドアを閉めきって、誰の目にも触れることなく行われる。Wikipediaには
「幼児期の最も基本的な社会性の教育過程である排泄訓練を通して、個人の秘密や主体性の確立といった自我の成長を遂げる。」
とある。排泄とは両親にもパンパースにも助けられることなく、その上、誰の目にも触れられずに行う成功体験だ。
しかし、小学生のぼくには"この行為"が途轍もなく恥ずかしかった。恥ずかしがる理由なんかひとつも思い浮かばないのにだ。ただ同じように考える人間は多かったようでトイレの個室はいつも空室であった。なぜ半日以上いる学校で便意を催さないのだろうか。お腹の弱いぼくはよく催していた。しかし恥ずかしいので、自分の学年とは違う階まで小股で遠征をしていた。トイレに行く回数の多かったぼくは自我が芽生え過ぎて人の目を異常に気にするようになったようだ。繊細な人にはお腹の弱い人が多い気がする。それは育ち過ぎた自我の所為ではないだろうか。
歳を重ねて、いつしか個室から出る光景を人に見られることに照れはなくなった。『むしろこんなところでも排泄できるような大物だぞ?』ぐらいの気持ちで蛇口へ向かう。
入社して、同棲をはじめて、人に見られる時間が増えた。トイレは人の目から守ってくれる核となった。ATフィールドになった。トイレにいる時間がふえた。