安倍公房「砂の女」解説から読みとく充足感
安倍公房さんの「砂の女」に付いていた解説から考えたことをまとめました。
砂穴に突き落とされた主人公は脱出を試みるが、村民に阻止されてー。
「希望は、他人に語るものであっても、自分で夢みるものではない」
砂のような流動的な世の中で自分が生きた証を残し続けることは難しい。ならば、何故生きるのか。なにも残らずに消えていく。希望は他人に向けるだけのまやかしなのだろうか。この小説が発売されたのは昭和だが、現代ではもっと流動性は増している。流行りの後にすぐ新しい流行が用意されて古いものから記憶を消されていく。
「いずれ男というものは、何かなぐさみ物なしには、済まされない物だからと納得し、それで気がすむというのなら、けっこうなことである」
生きることの無情さを忘れる為にすることがなぐさみ物である。生き甲斐と言い換えてもいいだろう。なにか現実逃避できることを見つけてはじめて生きて行けるかもしれない。
「女にはどういう生き甲斐があるか。それは、家を守ることである。「用もないのに」自由に出歩くことに大して何のあこがれもない」
女性の生き甲斐は「家を守ること」だと解説者は書いている。今の世の中を考えると前時代的である。性別さえも流動していてもはや自分の役割が分からない。
この頃(昭和)の「家を守ること」に関して、テクノロジーが今程発展していなかったことを考えると、これも大仕事だと思う。しかし、技術の進歩で一人暮らしや、ダブルワークが可能になってくる。作中当時は女性が働きに出ることは稀だったのだろう。そうなると、持てるお金も少ない。お金がないとできることも限られて何も憧れを持てなくなってしまう。格差が広がって憧れすら、なぐさみものさえ、見つけ辛くなっている今、何から充足感を得ればいいのだろう。
厳しい砂地に適応できるような虫にならなければ耐えられる世の中ではないのかもしれない。