若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

利他的な鬼滅の刃と利己的なビジネス書

 

 


最近読んだビジネス書に「利己的であれ」との教えがあった。尊敬するあの人の為に仕事をしても、その人が自分の前から居なくなってしまった時にモチベーションを保てなくなるからだ。と、説明していた。

 


対して、鬼滅の刃が流行った理由は「利他的だからだ」と説明するネット記事を目にした。従来の作品は、〜王や〜影を目指して、己の目標の為に戦う。しかし、鬼滅の刃は鬼になった妹を人間に戻す為に戦う、利他的なのである。従来の利己的な主人公たちの目的に同調できないと、読者たちは共感できないが、あくまで「他者の為」に戦うという姿勢は共感を呼びやすい。ネット記事ではこのような分析がされていた。

 


困ったことにどちらの主張も正しく聞こえる。ぼくは鬼滅の刃を、アニメ版の最終話までしか観ていないが、例えば「禰󠄀豆子が死んでしまった時に炭治郎は今まで通りに戦うことができるのか?」と考えてしまう。彼の1番の力の源は家族愛であり、守りたい人が変わった時に同じように力は発揮できるのだろうか。逆に禰󠄀豆子が人間に戻った後は燃え尽きて、ぐうたらな生活をはじめないだろうか?真面目な彼の性格上そんなことは考え辛いが、ぼくらは彼ほど強くない。目標が絶たれてしまったり、叶った後に腑抜けにならない保証はない。

 


ならば利己的になろうか。そう思ったが、ぼくの願いは「人に認められたい」だ。「愛されたい」でも「ちやほやされたい」でもいい。このSNS時代に同じように考える人も多いだろう。そもそも、承認欲求は人間が持ちうる欲求として当然のものである。よく触れるマズローの欲求5段階説ではこの「承認欲求」の高次の欲求として「自己実現」が現れる。承認欲求が満たされてないから、自己実現の欲が湧いてこないのではないか。目に飛び込んでくるインフルエンサーと自分を比べて自信を無くし、自分は声を発するべきではないと思えてきてしまう。社内にしても声の大きい大人たちを怖がって口を開けずにいる。満たされないぼくらはまず禰󠄀豆子を支えにするしかないのだ。自分を傷つけずに頼ってくれるのだから。