若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

快適な正解と意味を見つけること

 


ぼくらは義務教育で正解を学んだ。答案用紙に問題集でみた解答らしきものを書き足して教師に渡すと丸とバツで正誤判断される。正解が多いと得点が上がり、少ないと得点は下がる。いい成績をとるためには正解を連発しないといけない。当然社会に出ても正解が望ましい。しかしお金が絡むと途端に正答率が上がる。定刻通りに列車がやってきて、アナウンサーは発音よくニュースを読み上げる。できて当たり前。正解がありふれた社会で、その価値はすくない。

 


ネット記事で独立研究家の山口周さんのお話を読んだ。所謂3種の神器とよばれる、洗濯機、テレビ、冷蔵庫は今の価値にすると300〜400万円したそうだ。それなのにスマートフォンが浸透したようにあっという間に普及した。それぐらい価値があって正当に評価された商品たちである。その当時思い描いた未来にどれぐらい近づいただろう。

 


まちがいなく便利にはなった。しかし幸福にはなれているだろうか。

 

 

 

ぼくが中学生のときはCDをレンタルしてパソコンに取込み、それをiPodと同期して聴いていた。アルバムには10曲弱の曲が収録されていて5枚レンタルで1000円。新作のCDだともっと値が張った。あのときは音楽番組が週にいくつも放送されていてテレビではCMを超える度にちがうアーティストが映し出された。テレビで映りかわるようにぼくもiPodの曲を充実させたかった。しかし当時のお小遣いでは月にアルバム5枚が限度である。大人になったらいつかこのiPodの容量いっぱいに曲を持ち運びたいと思っていた。

 


容量が埋まる前にSpotifyを知った。月額料金で様々な曲を聴ける。日本でサービスがはじまった当初は聴けるアーティストはすくなかったが、いまでは星野源さんや東京事変の新曲が新曲料金を払わなくても聴ける。聴ける曲数はiPodの容量をゆうに越えた。何台のiPodを用意すれば全ての曲をインストールできるのか計算するのを考えただけでも気が遠くなる。

 


ある意味ではあのときの夢が叶った。しかし不思議と音楽からは離れていった。iPodの曲を取り込むときはパソコンの前に正座をしてアルバムの曲を聴きながら待っていたが、最近アルバムをまるまる聴いたアーティストはどれぐらいいるだろう。

 


あのとき「ほしい」と思った「正解」がやってきた。なのにぼくの赤ペンがつけた丸は霞んでいる。

 


これからも正解はふえるし、周りの人たちは正解の解答用紙をつくりつづける。どの解答用紙の点数も高い。それが当たり前すぎて凄さに気づけていない。あなたがつくりだした解答用紙は決して一夜漬けで完成するものではない。解答用紙に価値を与えなければならない。それは先生、もとい大人の役割なのかもしれない。

ケンリュウ『紙の動物園』の老いの選択

 


ある日を境に足をつることがふえた。つっている間はなるだけ足が動かないようにして痛みが去るのを待つが、あの時間は相対性理論がもろに働いて永遠痛みが続くような気がする。足がつる頻度が増えるのは加齢のせいではないだろうか、と怖くなった。もし違うとしても歳をとる度に身体は衰えていって足をつる痛みどころではない苦しみがぼくを襲うだろう。

 


ケンリュウさんの短編集「紙の動物園」で一層惹きつけられたのもそんな年齢に関する話だった。

 


表題は「波」である。不老不死を叶える術を得た人類は居住可能な星を目指しいている。ただし乗組員全員に治療を行うことはできない。船のエネルギーや食料に限りがあり乗員が増え続けたら不足が生じる。かと言って子どもを産まなくなってしまえば長い航海を越せずに人類は衰退してしまう。機械によって最適な計算が行われながらも治療を行う判断は人が下さなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここからは本作品のネタバレをしていきます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもに不老治療を行えば成長しきらないままである。大人には不老治療に嫌悪感を示すものもいる。ぼくならなにを選ぶだろう。歳をとるのは怖いし、好き勝手に遊び続けたいが、酒は飲みたいし、もし嫌いな大人がいても力では勝てない。かといってなんの治療もすることなく年老いるのは恐ろしい。大切な人が認識できなくなって自分のこともひとりでできなくなるかもしれない。そんなリスクに耐えられるだろうか。

 


この話は老いだけでは終わらない。地球に残っていた人類は地球上で技術を発達させて宇宙船の乗組員を追い越して居住可能な星に辿り着いていた。しかし身体は全て機械に置き換わっていた。人とは識別できないレベルに。彼らは異星人だと思われるほど変貌していた。

 


永遠の命を手に入れて肉体さえも不要になる。

 


テレビも冷蔵庫もパソコンも機械だ。我々人間は何万年も前からこの姿だ。多少自分を包む布の形や髪型に変化があったぐらいだろう。機械はどうだ。ぼくが生きている20数年の間に全く形はかわって機能はふえ、みたことのない姿のものも現れる。機械になってしまえばパソコンのように新しいソフトがどんどん入ってやれることがふえていくだろう。この作品では機械になったものたちにも子どもがいた。新しい人格を自分からいくつも創造できる。食料などに悩ませられることなく機械仕掛けの人間たちはどんどん数をふやした。

 

 

 

歳をとらずにやれることがふえていく。とても魅力的に思える。しかしこの作品を通して感じたのは恐れである。老いは怖い。あらゆることができなくなっていくことが辛い。だが、無限大の時間を与えられてなにをしようとする。身体能力が衰えずに無限大の時間を与えられればなんにだってなれる。いまから甲子園を目指すことも可能だ。しかしそこに価値はあるのか。誰もが同じように無限大時間をもっている。あらゆることが成し遂げられる。故にそこに価値はない。だから消費できない時間をなにもせずに過ごすだろう。

 


ずっと咲き続ける桜に美しさを感じるのだろうか。他の木に混じって風景となってしまうのだろうか。永遠にソリティアをやり続けても完成に喜べるのだろうか。少年時代を愛しく思うのは既に過ぎ去って戻ってこないことを知ってるからではないだろうか。上司が「怒ってもらえるのはいまだけ」と何度もいうのはぼくの歳を恋しく思ってるからではないのか。

 


時間は有限である。だからこそその時間内に偉業を成し遂げると称賛される。自分が無為に過ごした時間を偉業にかえられているのだから。老いとは過去に価値をもたせることである。ならばデカいことをしよう。老いたときに一層輝くように。

平日のスーパーにいる大人たち

 


しばらくお仕事番組をみれなくなった時期がある。仕事に嫌気がさして何ヶ月も休んでいたのである。ぼくの通帳口座が休みのリミットを示しており、家で過ぎる無為な時間にイライラしていると金づかいが荒くなってリミットが近づいてくる速度は増した。すぐに職場に復帰しなければと思ったものの、何日も会社に行かないとどんな顔をして働けばよいのかわからなくなるのだ。同僚たちはぼくのヘンテコな顔をみてもイジったりしないだろう。そこまでの仲ではない。おかしな顔を認知しながらもみなかったことにしてパソコンに顔を戻す。そんな光景を掻き消すように金をつかった。

 


働かざる者食うべからず。とは言うが働かなくても腹は減る。赤ちゃんは食べるのが仕事。とも言うが仕事を放棄した人間の食事は仕事としてみなされるのだろうか。自分で米を炊いて食ったらそれは働いたことになるのだろうか。まとまりのつかない頭でスーパーへ行った。平日の昼間でもスーパーにはそれなりの人がいて驚かされる。あの人たちは主婦なのだろうか。平日休みの人なのだろうか。リモートワークが認められている会社の人なのだろうか。まさか全員会社に行きたくない人たちではあるまい。真人間たちの間をヒゲにTシャツのぼくが小さくなりながら通った。カゴは邪魔にならないようにぼくの真後ろに持って移動する。誰の印象にも残らないように素早く食材を詰めて精算した。

 


それから周りの目を気にしてスーパーに行くためだけに服を着替えてヒゲを剃ることになる。家に帰れば、またTシャツである。

 

 

 

働いてる人をみてもいたたまれない気持ちにならない、と認識したのはつい最近である。働く人の大多数は頑張っている。自分の夢を叶えるためかもしれないし、頑張ってるフリなだけかもしれない。わからないが皆、懸命にみえる。あのときはそれを直視できなかった。みるためにはどうすればいいのか。自分を肯定できるほどの仕事をするのである。働いてる人をみても動じないのは働いてる人だけである。そしてその人の頑張りに気づけるのも同じである。そこから自分も頑張ろうと還元されていく。家で浪費していてもその輪に入れない。働かざる者食うべからず、とは半強制的にその輪に人を入れこむ言葉だ。入ってしまえばまっすぐにみれる。

ないことの豊かさ

 


情熱大陸でプロキャンパーの伊澤直人さんが特集されていた。伊澤さんはキャンプに持ち込む道具が少なく、一般の人が10kgのところ伊澤さんは5、6kgである。ほぼ半分。そこにテントは含まれていない。キャンプに必須かと思われたテントでさえ持っていかない。布を木に縛って雨を凌ぐ。米を炊くには空き缶を使う。火の調節ができないので缶を火から遠ざけたり近づけて調節する。

 


外で飲む酒は美味い。そう知っていてもなかなかキャンプに踏み切れずにいた。だからぼくは友人に誘われるまでキャンプの経験がほぼなかった。ソロキャンプをしてもいいのだが道具を揃えるのに躊躇してしまうのである。1回したきりでキャンプに行かなくなってしまうかもしれないし、失敗したくないという想いがある。

 


伊澤さんのキャンプをみていると道具の心配なんてどうでもよかった気がしてくる。なくても工夫次第でキャンプを楽しめるのだ。

 


伊澤さんは「同じ焚き火はない」という。それはヒトがずっと自然に順応してきたということだろう。型がないからこそ順応できて豊かになる。

たりなさによってうまれるもの

 


会社に文字通り爪弾きにされているおじさんがいる。ぼくは入社4年目で、初年度にその人と部署が同じになったが、その人はすでに4回部署移動をしている。ぼくの上司は「おれではアイツの面倒を見切れん」とボヤいていた。あの人の悪名は社内に轟いており、よく名前を耳にした。勤続年数自体は長いので仕事のことを聞きにいくことが多かったが3回に1回は寝ていた。あの人のいう通りにしたら怒られたこともある。

 


それでもぼくはあの人がすきだった。社会のプレッシャーに負けそうになってもあの人と喋っているときはプレッシャーを避けられている気がしていた。

 


先日、あるお笑いユニットが解散した。ぼくはその模様をオンライン配信でみていた。2人ともすっかり売れたが自らの劣等感によって結びついた2人であった。志の高さゆえの劣等感であるとは思うのだが2人とも『たりなさ』を感じていたのである。そのたりなさが2人を引き合わせた。たりなさがつないでいた関係だったのである。

 


ぼくは、あのおじさんに惹かれたように、なぜだか不完全な、むしろダメさ全開の人が気になってしまうようになっていた。それは自分の至らなさを重々承知しているからだろう。類は友をよぶというが、ぼくの友だちの悪いところもたくさん目にはいる。それでもその人たちと一緒にいようとおもった。たりてないからぼくが埋めてあげようとおもった。たりてないからぼくも埋めてほしいとおもった。

 


世の中にはどんどん新しくて複雑なものが生み出されている。それらすべてに適応してこなすことは不可能である。できないことを嘆くか、できないことに気づかないふりをするかしかない。だからまわりにたりないと感じることがどんどんふえていく。そしてたりないと感じる人がどんどんふえていく。そこで感じたたりなさがぼくらを引き合わせる。

『進撃の巨人』に酔う

 


ほんの数日前まで早朝に目が覚めてしまっていた。4時やら5時やらそれぐらいの時間だ。普段は6時にアラームをセットしているのでそこから2時間はやく目が覚めるのだ。進撃の巨人の続きが気になっていたのである。

 


Netflix進撃の巨人を観ている。この間最新話まで追いついたので数ヶ月後に放送される続きが気になっている。漫画に移ってもいいのだが、アニメのクオリティを見てしまうとなかなか移ることができない。

 


はじめは漫画から入った。一期のアニメがはじまるすこし前だろうか。すでに評判は轟いており遅ればせながら書店で単行本を購入した。「万人が評価するので仕方なくですよ?」ぐらいの気持ちで買ってこけ下そうかと思いながら1巻から3巻をレジに持っていった。次の日には4巻と5巻を買った。その3日後に最新刊まで揃えた。

 


止められなかった。進撃の巨人の魅力は「最善をとらないこと」だろう。わけのわからないタイミングで超大型巨人が正体を明かすし、主人公は仲間が喰われているのに闘おうとしない。登場人物たちの行動が必ずしも最善ではなく「あの時こうしていたら物語はどうなっていただろう」と思われるシーンがいくつもある。そこを素直に通らずに血迷った行動もするし、なぜそんな行動をとったのか考えさせられ、「そもそも最善の行動などないのではないだろうか」と気づかされる。現実はヒーローの活躍で簡単に好転するほどシンプルじゃない。

 


そんな「最善」について考えさせられる作品だが、ファイナルシーズンではなにが最善かさらにわからなくなる。窮地に自ら身を落としているようにみえる。だから彼らがどんな最善を辿るのか楽しみでしょうがない。

 


ファイナルシーズンはまだ完結しておらず評価できないのでサードシーズンから気に入ったセリフを2つ紹介する。

 


「死者に、次の世代に意味を持たせろ」

 


たまらなく嫌なことがあるとすぐに生きる意味を考えてしまう。嫌なことを「どうせみんな死ぬし」と逃避することもできるし、頑張りが無駄になったときは「生きててもなにも実らない」気がしてくる。だが社会の教科書を開いて見てほしい。土偶。不自然に配置された白骨の写真なんかが載っている。ゴッホも亡くなってから評価されたそうだ。未来にはなにが価値を持っているかわからない。5000年後にとっくに人類は滅亡していて、他の惑星から宇宙人が来たとする。その宇宙人が地中から電子端末を拾い出し、修理をして再起動を試みたらこの文章が現れるのかもしれない。その文章をみて標準的な地球人を思い描くのかもしれない。

 


あるいはすでに亡くなった方が残したものに命を吹き込めるかもしれないし、ご存命の方の力にもなれるのかもしれない。その助けた人が突如現れた巨人を駆逐してくれるのかもしれない。

 

 

 

「人はなにかに酔っている」

 


技術は進歩してぼくの周りに巨人がいないが、なにかに熱中しないと生きていく自信がない。エレンは巨人の駆逐を目指して生きた。週末に予定があると活力になる。寝起きに麻雀をすると目覚めがよい。そしてなにより進撃の巨人によって心地いい眠りを破ってまで起きようとする。恋に生きる人も、会社でのし上がろうとする人も、馬の順位を予想する人も、テレビで笑いをとる人もそれらに酔っている。それ自体に大きな意味はないのかもしれない。しかし、あとから生まれてきたモノたちがそれに価値を見出して、また熱中していく。はやく進撃の巨人のつづきをみて酔っ払いたい。

すきなことと得意なことは違う

 


先日の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』にジェーンスーさんがゲストでいらっしゃっていた。ラジオCM等でスーさんの名前をよく耳にしていたのでどんな人物なのか気になっていたが、放送を聴いていると人生相談で有名な方のようだ。会話の節々にこの人の信念のようなものを感じて好感が持てた。佐久間さんとスーさんは会話の中で

 


「すきなことと得意なことは違いますよね?」

 


と、話していた。スーさんは番組の企画で人生相談をするまで人から相談されることは少なかったし、佐久間さんも元々はテレビプロデューサーを目指していたわけではなかったそうだ。やってみてはじめて自分の特性に気づく。

 


しかし、"仕事にしても"すきなことや、"仕事にしても"得意なことがある人はどれくらいいるのだろうか。

 


ぼくは配属されて数日後にその仕事がすきなことでも得意なことでもないことに気がついた。

 


元から取り立ててすきなことなどなくイチ消費者として映画を観たり、ゲームをしたりしていたがそれを職として昇華する気持ちなどなかった。ただ新しいものが発売されたらやろうとしているだけでそこから踏み込む意思など持ち合わせていなかった。

 


仕事スケールでモノを考えてないので働くまでその事実に気づかないのである。

 


酒の席で「営業に向いてるよ」と言われたことがある。設計士をしているが、学校で1番できた教科は現代文である。そこそこ点数が取れていたし、これだけなら他の人に勝負できるぐらいには成績がよかった。自分の隠れた才能が見つかった、と思った。

 


仕事の適正にずっと悩んでいたぼくは会社を休みがちになり、とうとう営業職のオンライン面接までセッティングしてしまった。

 


午後6時のアポイントで人事部の方が自宅から面接を行ってくれるそうだ。ぼくはスーツに着替えて予定時間の5分前にリンクを飛んだ。zoomのような画面で、縦に二分割された左にぼくが映っていて右は真っ暗である。しかしこういったサービスには大抵、カメラをオフにする機能がついている。まだ人事部の方がいらっしゃってないのか、カメラをオフにしてぼくを観察してるのかがわからない。ぼくはなにもできずに自宅の見慣れた白い壁を美術館の絵画のようにじっくりとみた。一面が白いので作者の意図は伝わってこない。それでも悪い印象を与えないように壁を見続けた。

 


時間になると、40代ほどの男性が画面の右側に現れた。無地の壁からも作り手のメッセージを読み解きそうな思慮深そうな人物である。背景は自室だろうか、和室が映り込んでいた。

 


事前に知らされていた質問に用意された答えをしたが、聞き返されて、自分の答えを解説したがそれでも意図が伝わらずに終わった。一通りの質問をし終えた男性はぼくの寸評をはじめた。

 


「回答がまわりくどい。営業になりたければ一言で端的に話さないといけない」

 


と言われた。結果は後日連絡する、と伝えられたがひとつも褒められていなかったので結果のメールが届くまでの数日間は全くの無意味なものであった。たしかに現代文は得意だが、それ以上に人見知りだった。諦めがついたのもこのときである。自分には黙ってパソコンで作業をした方がよいと思えた。

 


それから時間はかかったものの前向きに仕事に取り組めるようになった。自分で揃えた情報を元に絵を描いて伝える。仮に文句を言われてもまわりくどいことなど言わずに「強度計算した結果は大丈夫でした」と数字で逃げることができる。得意なことはまだぼくの勤続年数では判断できない。そして"仕事として"得意なことやすきなことが見つけられる人の幸運に気づけた。どちらも見つけられない人がそれなりにいなければ働き方改革など起きない。みんな仕事など得意でもないし、すきでもない。それでもこなしている。壁を見続けなければいけない。見続けていれば前の住人の残していったシミぐらいは気づけるのかもしれない。