何者かになれる可能性
メディアへの出方がふえてからテレビに知らない人が映る頻度が上がった。毎日のようになにかの分野で1番になった人や動画がバズった人が現れる。芸能人に限定してみてもその数は多いので芸事で売れようとしてる人はさぞ大変だろう。
カメラが追うのは決まってなんらかの才能をもった人たちだ。視聴者もどこでもみれるものにチャンネルを合わせない。日常を垣間見ようと思ったらYouTubeの方が向いているだろう。潤沢な資金を投入して他所でも実現できることをしてもしょうがない。プロが集まる世界では、やはり演者もプロであってほしいと思う。
しかし才能を目にさらし続けて、かつ、その才能をまったく知らない人たちまで残らずもっていたら自分の何者でもないことに悲しくなる。ぼくの身の回りにある道具はプロが、あるいは、プロによってつくられた機械によってつくられている。読んでいる文章もプロによって書かれてプロによって編集されてプロによって印刷される。会社と家の行き帰りでは一般人の生気を感じないのだ。
そしてぼくは相変わらず誰かがやった仕事をなぞっている。何者かになるためには、誰もやったことのないことをやるには。
その答えの1つがネットに載っていました。
リンク先では「読書大全」の著者、読書猿さんが質問に答えています
https://diamond.jp/articles/-/266146
学びによってその学問を深めた人の思考に触れられる。同じ数式をかいて、同じ言語を話せば思考の片鱗に触れられる。ゼロから再現することはできないが、なんらかの考えに少しだけ自分の考えを足せられる。それがなんらかの形になるかもしれない。その形によさを見出してくれる人が現れるかもしれない。思考より自由なものはない。思考は既に何者かになっている。