若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

年老いた人が暴論を使うようになる理由

 


会社のトイレに入ろうとしたときに改修工事にきていた作業員の方たちの会話が耳に入った。

 


「娘が高校生でさ」

 


「高校生ってことは16とかですか?」

 


ぼくは16歳を若く感じているのに気づき、高校生1年生がちょうど10コ下になることに驚いた。ぼくは26歳だ。

 


同期の男の子に高卒の子たちが何人かいる。4つ離れているがほとんど同い年だと思って接している。4つはほとんどかわらない。だから大学生も高校生もほぼ同じだと思っている。だがその中の最小値とぼくの間には10年の隔たりがある。途端に年齢を意識した。

 

 

 

大学生の頃は年齢に大した意味はなかった。敬語を使うべきかの判断基準でしかない。その上あの頃の時間はずいぶんゆったりと流れていた。バイト中の休憩明けの5分間が永遠のように感じられた。しかし終わってみれば一瞬で、なにかに化かされていたように思う。

 


年齢を再び意識しはじめるのは25歳になって周りが結婚しはじめたときだった。そこからはテレビに芸能人の名前の横に映る数字を見逃さないようになった。

 


年齢を気にしていたときに「年老いた親はなぜメチャメチャなっていくのか?」というネット記事をみつけた。

https://rocketnews24.com/2021/06/05/1492452/

 

 

 

自分の親は昔からメチャクチャだが、言われてみればここ数年でその度合いは増しているようにも思う。記事の中では少々ヒドイ考えだと前置きしつつも両親が加齢とともにおかしな態度をとるようになったこと、そのことをネット上で報告すると同意の声が多数あがったことが書かれていた。加齢によって乱暴になるのは普遍的なことなのかもしれない。

 


たしかに老人はアクセルとブレーキを間違えて踏むし、大きな声で人を否定する。その声の大きさに圧倒されて謝るが、落ち着いてくると暴論に説き伏せられていたことに気づく。歳だからと彼らを労るし、雑用は代わって楽をして貰おうとするが、その姿勢は彼らの乱暴加減を助長させているのかもしれない。健康のためにすこしは彼らに身体を動かしていただいてもいいのかもしれない。

 


彼らの乱暴加減は反抗期の少年のようであるがかつては礼儀を重んじていたためタチが悪い。だれも彼らを叱らないし少年の可愛げもない。

 


このような態度の見解をネット記事が語っていた。

 

 

 

「歳をとると残されたものが寂しくならないように嫌われるような態度をとる」

 

 

 

やめていった若手社員は頻繁に思い出されるが定年退職した社員を思い出す頻度は少ない。それは仕事量の差から印象づけられるものかもしれない。しかし頻繁に思考を乱してくる若手社員は正直迷惑である。昼間からセンチメンタルな気分にさせられる。その点、おじいちゃん社員はさわやかだ。

 

 

 

口うるさい老人は厄介だが、親切な老人は神様の生まれ変わりとさえ思える。神様のような老人がいなくなったらぼくは寂しくなるのだろうか。