若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

大人視点の子ども

 


とうとう友人のInstagramに子どもの写真が混ざりだした。ぼくはまだ子ども側の人間だと思っていたが大きな断絶を超えて向こう側に辿り着いた者がいるのだ。26歳は大人かもしれないが自分に子どもがいない限り『親』にはなれない。ぼくらのファーストペンギンが生存に成功したことを皮切りに一気に親になっていかないだろうか。

 


そんなに焦るのならば子どもを授かる努力するをすればいいのたが、子どもをもつのも多大な度胸がいるだろう。自分の血を分けた分身が制御できないのに存在する。しかも分身の責任は自分がとらされる。未だに独り立ちできているのか自信が持てないのに不確定要素がふえるのである。ゾンビよりも心霊現象よりも未来の我が子が怖い。

 


ではなぜ人は子どもを産むのだろう。最近読んだ本には『つい数十年前まで子どもは労働力として産まれていた』と書かれていた。現在、少なくとも日本では労働力として子どもを産もうとする人はいないだろう。それなのになぜ。

 


こんな思いが頭の中に渦巻いたまま、ひとつの言葉に出会った。

 

 

 

「子どもを通してみると新鮮な世界が広がっている」

 

 

 

 


ネットで目にしたのか、ラジオで耳にしたか、テレビ番組で観たのかは思い出せないが、言葉だけがはっきりとぼくに残った。おそらくぼくはこれから『みたことないもの』が減っていく。感動する頻度は減り、かつて楽しんだ作品ばかり観て、食事も同じものを好むようになっていくのかもしれない。だが子どもはちがう。ぼくがこれまで生きてきて驚いたことに同じように驚いて、これまでに与えられた選択肢に彼らなりの答えを出す。そしてかわっていく世界にぼくらよりもうまく同調していくのだろう。ぼく1人ではみえない世界が彼らの前に広がっているのである。その世界をみようとして幼児について回ると不審者である。ならば自分の子どもを産もうか。いや、こんな動機ではまだ子育ては早いだろう。