若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

猫と犬のディベート

 


社会に出ると理不尽に合う。しかし、なにも大人だけが辛いわけじゃない。小学生の頃、あれはなんの教科だったのだろうか、ディベートをする機会があった。司会とタイムキーパーと主張をいう係、質問の受け答えをする係に分けられる。口下手なぼくにはタイムキーパーしかこなせないし、なんなら人の話を遮って話すのも苦手である。しかしなにかの役職につかないといけない。すると弁の立つような人はなぜか同じ軍勢を言いくるめて比較的楽な役職につく。そして人とのコミニュケーションが円滑にできないぼくに限って質問係のような1番腕が必要とされる部門に配属されるのである。

 


ぼくはゆとり世代である。詰め込み教育が否定されてつくられたゆとりに、ディベートのような、更に過酷なカリキュラムが組み込まれた。創造的な生徒を育てたかったのだろうか。それにしても小学生にディベートは酷である。友だちに遊びの誘いさえ気軽にできないのに論理立てて相手を言い負かすことなどできるのだろうか。

 


ただでさえ難しい課題であるが、問題もよくなかった。「ペットにするなら、犬?猫?」である。好みだ。ぼく個人的の意見を言わせてもらえれば「自分のことで精一杯なのに、ねこさま、わんこさまの命を預かる余裕がない」である。強くペットを飼いたいと思ったことがない。その2択に限って言えば犬の方が懐いてくれそうなので自分でも育て通せるかもしれない、というぐらいだ。

 


ディベートの難しいところは必ずしも自分の望む陣営に入れて貰えるわけではない、というところである。つまり、猫派に入れられた。猫が嫌いというわけではない。裏路地で猫とばったり出くわして、見つめ合ったままお互いに固まる瞬間はすきだ。しかし飼うとなるとどう接していいかわからないし、ペットショップの値札を見て、隣の家電量販店の大型テレビと等価値の値段をつけられているのに気づいておいそれとお近づきになれなくなった。

 


大人になってさえ、この駄文を撒き散らす有様である。小学生のぼくにはどうすることもできない。猫に見つめられたときのように固まった質問係のぼくに質問が投げかけられた。

 


「猫は犬みたいに簡単に懐かないのでペットにしない方がいいんじゃないですか?」

 


その通りだと思った。どちらも飼ったことのないぼくには一切の反論も思い浮かばなかった。猫と見つめ合って距離を詰めると猫は逃げ出すが、質問者は距離を詰めてくるようであった。タイムキーパーが時間の経過を伝える。見かねた同じ陣営のメンバーは「でも猫は可愛いので、いいと思います、って言え」と政治家のスピーチ係よろしく、ぼくに話すべきセリフを与えてきた。可愛いければ飼育の難易度は変わるのだろうか。ぼくは何の答えも用意していなかったが渡されたスピーチ原稿にも疑問が残った。なにも言えずに黙るぼくを見て、同陣営の仲間たちはぼくをなじりはじめた。猫と犬のディベートと同じ会場で「無言の質問係を許すべきかどうか?」のディベートも開催されたのである。そのディベートには反対派である。ぼくは泣いた。

 


社会に出ると理不尽に合う。しかしなにも大人だけが辛いわけじゃない。誰だって大なり小なり理不尽に巻き込まれる。だがそれが理不尽かどうかわからない年齢でも理不尽はやってくる。やってくるのは変わらない。そしてその多くが避けられないことも同様である。ならば、理不尽に気付かない方が幸せなのだろうか。理不尽と分かれば逃げ出せるのだろうか。それぞれが思う陣営につきディベートをして下さい。ぼくはタイムキーパーを担当します。