若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

映画『まともじゃないのは君も一緒』で考える普通のつまらなさ

 

 


コロナ禍を境に「ニューノーマル」という言葉を聞くようになった。コロナ関連の言葉かと思いきや、元は金融用語らしい。金融危機やそれに伴う景気後退を指す。噛み砕いていうとリーマンショックみたいなでっかい出来事の後は考え方が変わってしまいますよ、的なことである。それをコロナに置き換えて政治家さんやコメンテーターさんが話をするのである。コロナから1年も経つと、ニューノーマルも、もはや半分ほど日常に溶け込んでしまっている。緊急事態宣言で自粛生活をして感染者数が減り、宣言明けにリフレッシュしに出かけるとこれまでにない規模で感染者数が爆増する。この一年の様子をみてると自然におさまるのは不可能で、ワクチンが出回るまでの時間稼ぎをするしかないのが現状であろう。これでワクチンに大した効果がなければ、いよいよ本格自粛のはじまりだ。

 


自粛と自粛明けの憂さ晴らしはもはやセットになっていてエンタメ業界は憂さ晴らしに合わせるようにイベントや映画をセッティングするが、なかなかタイミングは難しそうだ。

 


たまたま時期が合って観れた映画が『エヴァンゲリオン』と『まともじゃないのは君も一緒』である。後者は従来の「ノーマル」になり切ろうとする話である。

 


結婚願望はあるものの、人の気持ちがわからない塾講師の男が生徒の女の子と一緒に『普通』を学び、結婚を目指すーー。

 

 

 

 

 

 

ここからはネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会に出てから結婚してない大人の多さに驚いた。今思えば、それまでは結婚している大人に囲まれて育ったので自然な感情だったのかもしれない。友達の親は当然結婚してるし、担任の先生もそれなりの年齢であれば結婚していた。結婚してない人は、ドラマ『結婚できない男』で阿部寛さんが演じるクワノさんのような人のイメージだったので、仕事で親切にしてくれる人の左手に指輪がはめられてないと、なにか恐ろしい本性を隠してるのではないかと邪推してしまっていた。

 


歳を重ねて結婚が現実味を帯びてくると諸々の費用の高さに衝撃を受ける。『普通』は高価だ。

 


漫画『NARUTO』でシカマルが試験で敵との戦闘で負けそうになったときに「普通の女と普通に結婚して、普通に子どもを産んで、普通に幸せになりたい」と願った。社会人数年目のそれらをやってもおかしくない年齢になると、その各工程が途方もなく大掛かりな催しに感じる。盛大に祝われて粛々と契約を交わすのだろうが、その胸中を考えると胃がかき回されそうになる。

 


映画の主要人物たちはそれらのハードルの先の結婚を目指すが、出会いのコミュニケーションから上手くいかない。

 


日本人の謙虚さのせいだろうか。みんな大変思いをしてるはずなのに、さも平気なように、普通のことだというように、簡単にぼくらが苦労してることをやり通してしまう。それを誇ればいいのにアピールしない。だから「なんで自分はこんなこともできないんだろう」と自分を嫌いになってしまう。お前らは凄いんだからもっとそれを示せ。そこまで行き着いた頑張りも見せろ。でないと、ぼくは焦ってしまう。

 


主人公の成田凌さんは問題を抱え込むと森へいく。森では風の音や、小動物が木を踏む音、虫の鳴く音、いろんな音が重なって単一の音を識別することは不可能に近い。コンクリートに囲まれた場所では人の存在しか感じ取れないが、たしかに多種多様な生物が地球に息づいている。何万種もいる内の1種でしかないのにその種だけで『普通』を考えている。だが、他の種から見ればそもそも2足歩行が異常だし、言葉なんか喋っちゃって気持ちが悪いだろう。ぼくらがゴキブリを嫌うように自然界では我々は嫌われ者なのかもしれない。

 


タモリさんが「人間なんてみんな変態なんだから、マトモなフリをしてる人が1番変態」と言っていたそうだ。

 


生物は基本的に子孫を残すように設定されている。交尾してるトンボがデタラメに飛ぶように、本能は縦横無尽に飛び回ってる。ルールや法律がぼくらの飛行を妨害して、その軌跡はむしろよりデタラメになっている。ルールが張り巡らされている以上、なにも考えずに飛ぶことはできない。自分の行きたい場所を考えながら決まりごとを避けていかないと普通に絡みとられてしまう。成田凌さんや清原果耶さんが目指した所謂『普通の人』は本来の自分と普通の網の中で余計に飛び方がおかしくなっていた。自分が飛びやすい運動の方が自然なのである。