若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

映画『凶悪』の悪人をどう裁くかについて

 

 


フィクションの魅力は、やはり自分が経験できない世界に触れてその世界を疑似体験できることではないか。バイオレンスなものや法を破るならず者たちの作品を好んで観てしまうのは現実の生きづらさからくる欲求なのかもしれない。しかし、バイオレンス映画にも観ていて気持ちいいものと視聴を中断したくなるものがある。快・不快あるいはメッセージ性を考慮するとどちらかが優れている、というものではないが、映画『凶悪』に関しては明らかに後者に該当する作品である。

 

 

 

ピエール瀧さんが演じる人物は保険金の掛かった人を殺すことでお金を稼いでいた。しかし、逮捕されて死刑が確定していたが裏で自分を指示していた人物が捕まりもせずに檻の外でのうのうと生きてることが許せないと言う。瀧さんは山田孝之さん演じる週刊誌の記者にその人物の記事を書くように頼むがーー。

 

 

 

 

 

 

ここからはネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


冒頭で話した気持ちのよいバイオレンスとは悪人が痛い目をみるもののような気がしてる。作中で観客に怒りを感じさせるような人物が酷い目に遭うと喜んでしまう自分がいる(冷静に分析すると歪んだ正義感のようで怖くなるが)。では不快感を感じるバイオレンス、これは弱者を痛ぶるものである。確かにこの作品で散々な目に遭う人たちは借金を踏み倒した上に支払い能力もない。彼らの多くは高齢で、労働によってそのお金を生み出すのも難しい(専門性を必要とせずに大金を稼ごうとするとどうしても体力仕事になってしまうようだ)。だから瀧さんやリリーさんは彼らの命にお金を掛けて稼ぐ。他に方法がないから。

 


借金を踏み倒すことも、人の命に手をかけることも許されることではない。だから両方ともしてはいけない。しかし既にそれらの行為に及んでしまった人たちをどう裁けばいいのだろうか。被害者たちにどう寄り添えばいいのだろうか。死刑によって残された人たちの気は晴れるのだろうか。罪人を生きながらせて一生かけて罪を償わせることが望ましいのだろうか。被害者たちは事件を忘れることで、なかったことにすれば幸せに暮らせるのだろうか。加害者にしても被害者にしても人である。その心を型にはめて、過去の事例通りの対処の仕方で済ませてもいい問題ではないのではないだろうか。だから検察官も弁護士もAIに置き換えない方がいいような気がする。

 


現実逃避の為に映画を観てるのに他人の問題まで抱え込んでしまった。しかもこの作品に限っては原作がノンフィクション小説のようだ。また現実の生きづらさが強くなった。今はベイブが観たい。