若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

町田康『告白』の自己表現のもどかしさ

 

 


町田康さんの作品がすきだ。「彼の作品をひとつも読んだことがない」という方は是非読んで頂きたい。暗い気持ちに沈められて酒浸りになるか、自分の行いを肯定されたような気持ちになってより酒を呷るかのどちらかになると思います。お酒がすきな(自著『しらふで生きる』にて現在は長らくの禁酒中だ仰っていたが)町田は決まって、主役に酒飲みのダメ人間を配役する。ダメとはわかっていてもなにかにつけて飲む理由をでっちあげ、酒を買ってくる我々には彼の文章は波長が合う。しかし、今回、感想をお伝えする『告白』に関しては単純に、「酒飲みのダメ人間」の話ではないのだ。

 


登場人物に農民の多さや言葉遣い、鉄砲がでてくることから舞台は江戸後期、あるいは明治初期あたりであろうか(高校時代に日本史をとっていなかったので正確には読めとけないが)。農民の息子、熊太郎は自分の思いを言語化することが苦手な少年であった。そんな少年が誰にも話せないようなある事件に遭遇し、より人との会話をストレートに話せなくなってどんどん自暴自棄になっていくーー。

 


対人トラブルのほとんどの原因は思いのすれ違いによるものだと思う。脳みそに浮かんだ考えを言語化して口から出し、聞き手は音の振動を鼓膜で検知して、相手の言葉を脳で処理する。この伝言ゲームのどこかで失敗して考えが共有できずに誤解が生まれるのだ。その失敗とは熊太郎のように言語化がうまくできない場合もあれば、単純な聞き間違いもあるだろうし、相手の言ってることが理解できずに脳の処理が正常に行われないこともあろう。同じ言葉を使ったとしても話し方や間、ボディランゲージで印象もかわってくる。ぼくがいくら芸人さんのフリートークの面白かった話をしても「フーン」と返答したまま、スマホから顔は上がってこない。仮に脳みそをそのまま提示できればいくつかの宗教問題は解決できるとさえ思っている。

 


『田などというものは耕すばかりでなく、その他にもなにくれとなく手間をかけた上で結果が出るのは早くて半年後だし、土壌のことなどを考えれば一年以上の時間を費やさねばならない。そこで初めてちゃんとしたかどうかが判明するのである。しかるに博奕においては、壺振りが賽子を壺に抛りこみ、くるくるして伏せ、中盆が、「勝負」と声をかけて壺を開ける数十秒の間に結果が出る。そしてたとえ負けても賭け金をとられるだけで博奕場においてそんなものは快、不快をあらわす抽象に過ぎないから人間の根本の部分は少しも痛まない』

 


本作の中でふとしたおりに、農作に挑戦した熊太郎は上のようなことを思った。人が1日の1/3の時間、或いはもっと多い時間を費やす仕事はその人の本質のいくらかをあらわすのは間違いない。仕事ができれば部下に慕われて、もっとできればメディアに注目される。資本主義社会の中では仕事ができる人ほどスゴいのである。しかし、自分の仕事の良し悪しの判別に時間がかかる職業があるのも事実だ。ここでいう農業など、その最たる例で収穫まで農作物の出来、もとい、本年度の働きの成果はわからないのである。だが、ギャンブルは別だ。試しに1000円札をパチンコ台に入れてみれば、当たり外れは瞬く間にわかる。その上、たとえ負けたとしてもそれは台がハズレ台であっただけで自分はなにも悪くはない。

 


ぼくであればこれを酒に置き換えている。町田作品の人物たちも決まって酒飲みだ。酒を飲んだ時に本音をオブラートで包んだような悪口を言われても、悪口を言われたのは酔っ払いのぼくであり、自己の否定には結びつかない。そして酔いの場で悪さをしてもその加害者は酔っ払いのぼくなのである。アルコールのまわり切った頭で家に着いた時に途方もなく寂しい気持ちになるのは、気の知れた仲間たちにも自分の本質を理解されてないと思う意識からではないだろうか。

 


脳みそに浮かんだもの。それ自体をそのまま理解されたい。だからぼくは本を読むし、言語化を続ける。