若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

映画「ギルティ」の自分の仕事の枠

 

 


6年前、大学の入学に合わせてぼくは一人暮らしをはじめた。大学進学もほとんど一人暮らしに憧れてのことだった。すきな時間に寝て起きて、すきなことをすきなだけして、なんの文句も言われない。トイレもドアを全開にしてするし、大音量で女性の喘ぎ声を再生した。それでもとんでもない寂しさに襲われることがある。1日中、誰とも話さない日が普通にあって深夜のTSUTAYAで「こちらブルーレイですがよろしいですか?」の質問に、狂人のような声量で「ハイ!」と答え、自分の声に驚いた。そんな寂しさを埋めてくれたのはラジオだった。人の肉声がスマホのスピーカーから流れてきて、自分と同じように孤独を感じているリスナーのメールが読まれると1人じゃないような気がした。何時間も放送を続けるパーソナリティはぼくのために話し続けてくれているような気分になった。時に、どんな名曲よりも1人の何気ない世間話が心を救うのだ。

 


映画「ギルティ」では逆に、声によって恐怖する。主演は警察の緊急ダイアルの電話番の男性である。ドラッグでハイになった男性や膝を怪我したから迎えが欲しいと話す女性など警官が関与した方がいいのか微妙なラインの電話が次々と繋がる。そんな中1人の女性から不審な電話がかかってくる。女性は自分の子どもと電話しているように話す。こちらが「緊急ダイアルですよ」と間違いを伝えてもなかなか切ろうとしない。嫌な予感がした警官は「誘拐ですか?」と訊くと、相手からは「YES」。警官は誘拐犯に悟られないように情報を聞き出そうとするがー。

 


ここからは本作のネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


映画「search」に近い本作。searchではPCの画面上にテレビ電話の映像などを映してPC画面だけで物語を展開させた。こちらでは緊急ダイアルの男性しかカメラに映されない。電話口の相手の様子は"音"でしか判断できず、常に最悪の状況を想定してしまうが、それを上回る事態が展開される。主人公は警官であるのでもちろん強い正義感を持ち合わせており、そんな事態をなんとかしたいがあくまで仕事は"電話番"であり、その場を離れることができない。現場に近い警察官たちに連絡するが「こちらで対応するので、新しい情報が入るまで連絡しないでくれ」と迷惑がられる。深刻化する事件と自分の仕事の枠に苦しめられる主人公。観ていてハラハラと自分の無力さを感じてしまう作品だ。

 


昔、読むのを挫折した経済学の本に「現代は分業化がかなり進んでいる」と書かれていた。ぼくの仕事を例にとると、営業が客先から注文をもらって、ぼくが図面を作成し、機械の材料を発注する人がいて、材料を加工する人がいて、機械を組立る人がいて、機械をお客様に送り届ける人がいる。それぞれが自分の仕事を繰返し行い、その道のプロになっていく。やってることはどんどん高度になって、その人しかできない仕事が生まれて、そこに価値ができる。作業スピードも上がり、生産性からみても分業化は合理的な考え方だ。

 


しかし、本作のようなもどかしさもある。ぼくの図面に不備があっても、その失敗を埋めるのは加工業者であったり、作業員だったりする。設計ミスの対応を彼らと考えはするものの、その姿を見届けることはできない。ぼくの仕事は設計であり、実際に機械を作ることではないからだ。手伝おうとしてもそういった場では、ずぶの素人であり、邪魔者でしかない。緊急ダイアルの男性も、現場へ向かいたくても、他の電話がかかってくるかもしれないし、その場を飛び出すわけにはいかない。担当者の働きを信じて祈ることしかできない。その気持ちがわかるが故に苦しい。この苦しさはその業界に長くいて『この人なら安心して仕事を任せられる』と思えるような人に出逢わない限り解消されないであろう。相互に安心しながら働きたいものである。