若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』の傷つかない距離

 

 


スマホでアイドルの情報を逐一チェックしていたことがある。数年前、でんぱ組が大好きだった。BPMが高めな楽曲は学校までの数分間を明るい気持ちにさせた。駅から大学までの道は一本道で人がごった返していたが、「サクラあっぱれーしょん」を流していれば気にならなかった。

 

 

 

 

 

 

この記事は宇佐美りんさんの「推し、燃ゆ」のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

芥川賞を受賞した本作。主人公はアイドル好きの女の子だ。推しを追いかけているが、人が"当たり前にできること"ができない。推しだけが生きがい。しかし、その推しに暴行事件が発覚しーー。

 


『落ち着くってどういうことだろうせわしなく動けばミスをするしそれをやめようとするとブレーカーが落ちるみたいになって、こう言っている間にもまだお客さんはいるのにと叫び出す自分の意識の声、体のなかに堆積したそれがあふれて逆流しかける。』

 


主人公がパニックになってしまった時の描写です。ぼくも本当に焦った時は使い物にならなくなってしまう。自分のせいで周りは迷惑してるのになにをしていいかわからない。なんらかのカバーをしようとするが、事態を悪化させそうで動けない。この焦っている自分を冷静に俯瞰している自分もいて、まずは普段通りの状態に戻ろうと再起動をかけるが読み込みマークは回ったままで、復旧の見込みがない。大人に「これをやれ」と怒られるか、すべて対処した後に「今度からは気をつけてね」と言われて終わる。たとえ同じミスが起こっても同じ光景が繰り返されるだけでぼくは音を立てて再起動の読み込みするだけだ。

 


主人公は推しと恋仲になりたいわけではないが、優しさを感じている。

 

 

 

『携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへただりのある場所で誰かの存在を感じ続けることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。』

 

 

 

アイドルは英語の「idol」が元になっているそうだ。「神像」「偶像」「幻想」といった意味がある。つまり、触れられないことに価値があるのだ。

 


握手会に行ったことがないので経験者を尊敬している。数秒間の対面でなにを話せばいいかわからないし、こちらがなにも話せずに、困ってしまうアイドルをみたくない。画面を通してみていれば、周りの大人たちのように否定してくることはないし、「ファンの皆さんのために歌います」なんてどのファンに向かって言ってるのかわからない発言に喜ぶことができる。そして幻想なんだからファンが都合のいいように彼女/彼らの人格を創り上げて崇めていればそれでいいのだ。なんらかの罪に問われてもあなたの創ったあの人を信じていればいいのだ。

 

 

 

先日、元AKBの板野友美さんと島崎遥香さんがYouTubeで共演しているのを見かけた。アイドル時代からほとんど喋ってるイメージがない2人だ。CMの一言やタモリさんに話を振られて応答した数秒しか彼女たちの声は耳にしておらず、バラエティのひな壇にいても置物のように固まっていた記憶しかない。そんな2人が普通の女の子のようにジェンガをしていた。その姿は何処にも偶像感などなかった。しかし、ファンの「こうあるべき」という固定概念から解放された彼女たちはとても自由に見えた。どんな職業でも求められる姿がある。学生は校則を守らないといけないし、中間管理職のおじさんは部下を強い言葉で操らないといけない。人口が増えて、私生活を見張れるテクノロジーもできて、縛りが多くなった。だからその縛りを全うしようとするアイドルたちは美しいし、その縛りから抜け出したアイドルはもっと美しい。