若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

安倍公房「他人の顔」の孤独

 

安倍公房さんの「他人の顔」を読みました。顔を失った男が人間そっくりの仮面を被って孤独と戦う話です。

 


ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

 

 


街に出ると人がいます、となればその人たちの視線がある。作者はこの視線を「腐食性の毒をまぶした針」と表現した。

街に出た時にほとんど車を使って歩いているのはほんの数歩なのに、疲労感を感じるのはこの針によるものではないか。

 


この物語の冒頭で包帯を顔に巻いていた主人公にはもっと太くて大量の針が向けられていたことでしょう。

それ故に顔を隠すために仮面をつくるようになります。

 


コロナ禍で夏でもマスクをしていた。マスクをしていれば自分はその他大勢に紛れ込むことが出来た。世界の共同体の一部として存在できたのだ。

 

 

 

孤独は受け入れれば隠者にとっての幸せになる。逆に孤独に立ち向かって『全ての他人を隣人に』しようとしても億の単位でその人たちの願いや心情を推測する必要がある。だから潔く諦めて孤独の抗体をつくった方がよいのではないか。

 


『未来は過去からの演算である。』たとえプラスを少量出しても大きなマイナスの前には意味を持たない。孤独に生きていた人間が他人に歩み寄ろうとしても過去のマイナスを超えることはできない。

 


『では一本のレコードの溝のことを、思い浮かべてもらいたい。あんな簡単な仕掛けからでも、何十という音色が再現できるのだ。まして人間の心が、対立する二つの音色を同時に鳴らしたからといってべつだん驚くほどのことはないだろう。』

 

 

 

服屋のお姉さんがタイムセールをグラスが割れそうな裏声で伝えた後に後輩のスタッフに厳しく地声でダメ出しするなど、声そのものが仮面であり、声を変えなくたって仮面を付け替えられる。

 


隣人のような具体的な人間関係はフィクションだけのものになって、作りものの人間関係を渇望しながら生きていく。

理想と現実の差に苦しみ、いつしか他人アレルギーを発症する。他人の仮面を信じられなくなっていく。

 


しかし、主人公の妻は

「愛とは仮面の脱がし合いである」と言った。

恋人の前でしていた仮面がいつしか外れて愛を育む内に素顔の自分が出てくる。それでもパートナーを愛することが出来るのか。脱がし合いの過程だけ楽しんで、残った素顔まで愛することが出来るのか。

 


主人公は孤独を語っていたが、妻がいた。その上で妻をより求めた。

 


アプリで簡単に豪華な仮面を被った異性に出会える現代で隠された素顔を想像して、素顔に近い今の恋人と比べた時に正常な判断は出来るのか。仮面がこの作品が発行された当時よりも手軽になっている。仮面に騙されないように疑心暗鬼になった時、孤独はより深まる。