「ちゃんとしろ」に意味が含まれ過ぎている
映画「キツツキと雨 」を観た
林業をして働く役所広司が新米監督の小栗旬を手伝うことになる。
成り行きでエキストラとして映画に出演することになった役所広司。スタッフに早口でどんな動きをすればいいかを一方的に教わるが、勿論素人のおじさんがその程度のレクチャーで演技なんて出来ない。するとスタッフが駆け寄って「ちゃんとしてください」と怒られる。役所広司の劇中の演技はなんの知識を持ってないぼくから観ても修正点だらけであらゆる指摘を言わないといけないが、エキストラにそんなに構ってられないから「ちゃんとしてください」で済ませる。
役所広司ぐらいの年齢になれば「ちゃんとしてください」も減るだろう。しかし、この映画の小栗旬は映画監督である。大道具、俳優をはじめスタッフに「ちゃんとしてください」の嵐だ。芸術作品の「ちゃんと」とは何だろうか。明確な論理があるでもなく発言者の立場によっても「ちゃんと」は変わってくる。
スタッフにハッキリと指示を飛ばせない小栗旬に役所広司が木の話をして励ます。「木は100年育って一人前だ」
ぼくもこの映画の小栗旬と同じく24歳だ。職場は10コも20コも歳が離れている人が多い。この人たちが基本的に苦手だ。自分の中でその人なりの「ちゃんと」が根付いていてなかなかそれを曲げてくれないし、大抵それが合ってる。ぼくはそれに従うことしか出来ない。しかし、小栗旬同様に、自分の意見を求められる。「ちゃんと」した大人が決めてくれればいいのにぼくに意見を求めて、それを聞いた上でその人の「ちゃんと」を提示される。
ぼくはそれを「ぼくを否定して自分の正しさを誇示する為」にしてるのだと思っていた。しかし、それは違った。ぼくが幹を伸ばすのを見守り、間違った方向に向かえば正してくれる、「添え木」をしていたのだ。
「木は100年育って一人前だ」
ぼくは「ちゃんと」という添え木に寄りかかりながら葉を茂らせる。