若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

頼みごとを断れない人が頼るべき人

 


店員さんに横柄な態度をとれる人が不思議である。まるで彼らの過剰な要求が料金に含まれているような態度だが接客業に"迷惑料"なる賃金は発生しないし健全ではない。加えてサービス業につきながら高額なお給料を貰っている人ような品のある人には迷惑客もおじけづくだろう。

 


同業者であっても自分の立場や年齢をたてに"お願い"をしてくる人間がいる。ぼくは技術者なので専門的なことには答えるがほとんど自分の知識ではなく、尋ねられてから時間を捻出して集めた情報を依頼人に渡している。彼らのちょっした時短はぼくの残業になっているのだ。

 


そうであればあらゆる頼みごとを断って自分の本業のみに専念できる人は有利である。仕事の覚えもいいことだろう。そしてそれが上司に評価されるのである。ぼくもそんなことはわかっている。だけど断れないから困っている。

 


ネット記事でひろゆきさんが「騙されやすい人」についてインタビューを受けていた。

 


https://diamond.jp/articles/-/273198

 


騙されやすい人とは、頼みごとをされて断るときに罪悪感を抱いてしまうような人である。そのままぼくだ。

 


たぶん頼みごとが断れないのは学生時代にイベントスタッフのバイトをしていたからだ。ざっくりいうとショッピングモールなどで買い物客に商品を売りつける仕事である。成約に関わらずに時給が発生し、かつそれなりに高額であったため、申し訳ない気持ちになって懸命にお客さんに声をかけた。しかしそれに応えてくれる人は数十人に1人である。気の強い人も弱い人も態度はそれぞれであるが決まって話にのってくれない。ほとんどが自分に向けられているのかわからないような小さなジャスチャーで会話が終了する。広い店内なのでそれなりに声を張っているが手で払われる。

 


ぼくは集中力が切れると妄想をして時間をやり過ごそうとするが勤務時間は8時間である。妄想だけではやり過ごせない。休憩を挟みながらも立ち続けていると疲労感も加わって精神は更に追い込まれる。

 


あんな気持ちで働いているのかと思うとショッピングモールにいるはっぴ姿の販売員たちを蔑ろにできない。2、3回ほど会話をラリーしてしまうことがある。

 


この間は販売員に「たすけて…」と弱々しく呼びかけられた。

 

 

 

あまりに可哀想だったので足をとめると途端に彼は元気になってテレビショッピングの出演者のようにハキハキと話しはじめた。頼みごとを断れないような人間が頼るべきは自分に近い人間である。

年老いた人が暴論を使うようになる理由

 


会社のトイレに入ろうとしたときに改修工事にきていた作業員の方たちの会話が耳に入った。

 


「娘が高校生でさ」

 


「高校生ってことは16とかですか?」

 


ぼくは16歳を若く感じているのに気づき、高校生1年生がちょうど10コ下になることに驚いた。ぼくは26歳だ。

 


同期の男の子に高卒の子たちが何人かいる。4つ離れているがほとんど同い年だと思って接している。4つはほとんどかわらない。だから大学生も高校生もほぼ同じだと思っている。だがその中の最小値とぼくの間には10年の隔たりがある。途端に年齢を意識した。

 

 

 

大学生の頃は年齢に大した意味はなかった。敬語を使うべきかの判断基準でしかない。その上あの頃の時間はずいぶんゆったりと流れていた。バイト中の休憩明けの5分間が永遠のように感じられた。しかし終わってみれば一瞬で、なにかに化かされていたように思う。

 


年齢を再び意識しはじめるのは25歳になって周りが結婚しはじめたときだった。そこからはテレビに芸能人の名前の横に映る数字を見逃さないようになった。

 


年齢を気にしていたときに「年老いた親はなぜメチャメチャなっていくのか?」というネット記事をみつけた。

https://rocketnews24.com/2021/06/05/1492452/

 

 

 

自分の親は昔からメチャクチャだが、言われてみればここ数年でその度合いは増しているようにも思う。記事の中では少々ヒドイ考えだと前置きしつつも両親が加齢とともにおかしな態度をとるようになったこと、そのことをネット上で報告すると同意の声が多数あがったことが書かれていた。加齢によって乱暴になるのは普遍的なことなのかもしれない。

 


たしかに老人はアクセルとブレーキを間違えて踏むし、大きな声で人を否定する。その声の大きさに圧倒されて謝るが、落ち着いてくると暴論に説き伏せられていたことに気づく。歳だからと彼らを労るし、雑用は代わって楽をして貰おうとするが、その姿勢は彼らの乱暴加減を助長させているのかもしれない。健康のためにすこしは彼らに身体を動かしていただいてもいいのかもしれない。

 


彼らの乱暴加減は反抗期の少年のようであるがかつては礼儀を重んじていたためタチが悪い。だれも彼らを叱らないし少年の可愛げもない。

 


このような態度の見解をネット記事が語っていた。

 

 

 

「歳をとると残されたものが寂しくならないように嫌われるような態度をとる」

 

 

 

やめていった若手社員は頻繁に思い出されるが定年退職した社員を思い出す頻度は少ない。それは仕事量の差から印象づけられるものかもしれない。しかし頻繁に思考を乱してくる若手社員は正直迷惑である。昼間からセンチメンタルな気分にさせられる。その点、おじいちゃん社員はさわやかだ。

 

 

 

口うるさい老人は厄介だが、親切な老人は神様の生まれ変わりとさえ思える。神様のような老人がいなくなったらぼくは寂しくなるのだろうか。

AIの恐ろしさとライフサイクル

 


SF作品におけるロボットは基本的に暴走する。実際のロボット、あるいは機械は、最優先事項に安全を掲げているためにそんなことは起きないし、起こさないために機能を制限している。新興国での技術革新がめざましいのは制限が緩いためである。

 


機械の暴走も過度な制限も恐ろしいがネット記事にてAIの本当の恐ろしさについてかいていたものがあった。

 

 

 

https://president.jp/articles/-/46445?page=3

 

 

 

記事のなかでAIの恐ろしさは「死なないこと」だとあった。人はどんな偉人であっても、どんな悪党であっても、必ず死ぬ。だから間違いが起こっても修正できるのである。仮に全人類が信じ込むようなAIが生まれたとして、そのAIの判断が間違っていたとき、どのようにして間違いを正せるだろうか。人が信じてしまうAIだ。かなり高性能だろう。内部はブラックボックス化して思考経路を辿ることはできない。そして最悪の場合はAIがその間違いに気づいているがその事実を隠蔽しようとした場合である。みつけようがない。ぼくは政治家たちが国会で実際になにをしてるかしらない。思考回路を辿ることもできない。なぜオリンピックを開くと決断したのかははっきりしないし、緊急事態宣言の発令される条件や期間も曖昧である。

 


ではAIではなくヒトが死ななくなったらどうなるだろうか。例えば過去の記録たちの価値は途端になくなる。大谷があの身体能力のまま生き続ければ通算ホームラン数は増加を続けて過去の記録たちを大幅に抜き去るだろう。その上ホームランの価値は相対的に減って試合の勝ち負けも膨大な試合のひとつとして重要視されなくなるのかもしれない。勝負事に熱中することはなくなって、死ぬ心配がないから争いもなくなるし、挑戦も同時に消失する。我々は死んでしまうから無事に1年生き延びると誕生日を祝う。それすらも歳を重ねていくに従い、形式化し、同世代がいなくなりはじめると途端に価値が再構築される。死と不死は同様に恐ろしいのである。

夢の役割は未知の危険に備えるためなんですって

 


夢の役割は記憶の整理のためだときいたことがある。しかし夢の役割ははっきりとはわかっていないらしい。たしかに記憶の整理をしてあんな支離滅裂な映像をみせられるのには違和感を感じる。

 


先日、夢についてのニュース記事を読んだ。そこにかかれていたのが「夢の役割は未知の危険に備える説」というものだ。

 


https://www.google.co.jp/amp/s/www.gizmodo.jp/amp/2021/05/our-weirdest-dreams-could-be-training-us-for-life.html

 

 

 

ぼくは個人的に夢の中で謎の組織に追われることが多いので、しっくりくる説である。追われるなどネガティブな場合が多いのでいろんなパターンの危険に対応している。

 


ポジティブな夢にも発見がある。学校で友だちと仲良く学校生活に勤しむ夢をみることも多々ある。夢の間は旧友たちに囲まれて満たされているのだが、起きると歳をとっていて、もうあの日々は過ごせないと思うとたまらなく悲しくなる。だから彼らと会う時間をつくろうという気分になる。それは当分あとのことになるだろう。会う頻度が減っていくにつれて友人たちの夢をみる頻度も減っている。幸せな夢をみるためにも彼らに会わなければかならない。

 


危険は多く降りかかるがだいたいは危険に遭遇してる最中に目を覚ますか、急に場面がかわるかである。だから危険に対する明確な解決策は見出せれていない。あるときはワンピースのニコロビンのように腕を生やすことができた。襲いかかってくる敵を大量の腕で撃退するのはたのしかったが、夢の途中から腕が生えてこなくなって焦った。現実はそもそも腕を生やせないので敵が襲いかかってきた段階でお手上げである。

 


思い通りの夢がみたいなら夢の出来事を日記に書くとよいそうだ。しかし平日の朝からベットの上でゆっくりと日記をかく時間はない。そしてよっぽどショッキングな夢ではない限り、昼食のときにはその内容をわすれている。

 

 

 

友人たちの過ごす夢や悪魔の実を食べる夢をみたいし、現実に体験したい。そして現実の危険に怯えないぐらい穏やかに暮らしたい。

マキシマムザホルモンが提唱する緊急事態宣言下でも禁じられていないこと

 


またも東京で緊急事態宣言が発令された。それに伴ってロッキンジャパンは中止するようだ。大声を発することは飛沫リスクがある、と考えてのことだろう。大雨のニュースがやっていたと思ったら今度はこれである。なんだかここ数年トラブル続きだ。この憂さ晴らしをしようと先日はマキシマムザホルモンの配信ライブを視聴した。4月に行ったライブ映像をいくつかの配信サイトが配信した。

 


その日は万全を期して有給を取得した。開始時刻に映し出されたのはメンバーの楽屋風景であった。ナヲさんがこちらに呼びかけて視聴者たちはコメントでそれに応じる。3万人がその光景を目にしていた。楽屋でのおしゃべりが3分ほど応酬されたところで画面は黒くなって中央で渦を巻いた。数ヶ月前のライブ映像なのにサーバー落ちである。ぼくは呆然とした。数分間画面上の渦を見守ったあと「これは自分だけが陥ってる状況なのか」と不安になり、ハッシュタグをつけて検索をした。どうやら特定の配信サービスから動画をみていた人たちは落ちてしまったらしい。ぼくはタブレットで渦巻きの動画を流して、スマホで最新情報を更新し続けた。

 


しばらくして配信サイトから届いたメッセージには、生で配信をみることが難しいことと返金する旨が書かれていた。

 


翌日。ぼくは前日のサーバー落ちがなかったかのように同じような佇まいでタブレットから配信サイトを立ち上げた。アーカイブを再生する。

 


〜面面面〜と銘打たれたこのライブでは最強の転売対策がなされていた。題して全席顔面指定ライブである。ホルモンのみなさんたちであれば「イジられてもいい」という熱狂ファンたちに顔写真を送ってもらい、メンバーがファンにあだ名をつける。つけられたあだ名をもとにカテゴライズして座席を指定する。カテゴリは「ふとっちょ」「コワモテ」「オカン」「顔だけエリート」などである。

 


コロナ禍で大声を出すことを禁じられた彼らはそれぞれのカテゴリ毎に「エモートスキル」をすることを許されていた。「顔だけエリート」であれば曲中にキーボードをタイプして、「ふとっちょ」であればスナック菓子をマラカスのように振るなどである。しかし空気の詰まったスナック菓子の袋はホルモンの激しめのライブ会場では強度が足りずに「ふとっちょ」が持参したカールの袋は破けて床に黄色の粉が散乱していた。しかし見かねた隣の「ふとっちょ」がプチをその方にあげていた。カールのふとっちょはうれしそうにプチを振っている。まるでサイリウムのようであった。

 


会場まで脚を運んだファンたちにはフェイスシールドを布のマスクで囲ったようなオリジナルのマスクが配られた。それで彼らの素顔がみえた。日常になっていて気がつかなかったがしばらく人の素顔をみていなかった。テレビのタレントや同居人の顔は目にしているものの、街で目にする人は全員マスク姿で顔の目元から下はみえない。

 


しかし会場にはたくさんの顔があった。さまざまなあだ名をつけられたファンたちは個性豊かだ。そして同じ顔の人なんていない、という至極当たり前のことにあらためて気づかされた。ほとんど大きさが同じで同じパーツで構成されているのに70億パターンの顔がある。自分とまったく同じ顔の人が地球上に2人いる、と聞いたことがあるが、70億分の2にしてもめちゃくちゃな数字だ。同じ問題を抱えて「緊急事態宣言」という同じ闘い方で闘うとしていたがそれも無理な話である。これだけ多様なんだから。だからマスクを剥ぎ取ってふたたびこの多様性を感じたいと思えた。

 


ライブ中にナヲさんはいった。「ヘドバンは禁止されていない」と。ぼくはそのあとにナヲさんがいった言いつけを守って頭を振った。そしてぼくはナヲさんがいった通りに首がすわってない赤ちゃんのようになった。マスクを剥ぎ取れるその日までぼくは頭を振るだろう。あらゆる禁止と闘うために。

大人視点の子ども

 


とうとう友人のInstagramに子どもの写真が混ざりだした。ぼくはまだ子ども側の人間だと思っていたが大きな断絶を超えて向こう側に辿り着いた者がいるのだ。26歳は大人かもしれないが自分に子どもがいない限り『親』にはなれない。ぼくらのファーストペンギンが生存に成功したことを皮切りに一気に親になっていかないだろうか。

 


そんなに焦るのならば子どもを授かる努力するをすればいいのたが、子どもをもつのも多大な度胸がいるだろう。自分の血を分けた分身が制御できないのに存在する。しかも分身の責任は自分がとらされる。未だに独り立ちできているのか自信が持てないのに不確定要素がふえるのである。ゾンビよりも心霊現象よりも未来の我が子が怖い。

 


ではなぜ人は子どもを産むのだろう。最近読んだ本には『つい数十年前まで子どもは労働力として産まれていた』と書かれていた。現在、少なくとも日本では労働力として子どもを産もうとする人はいないだろう。それなのになぜ。

 


こんな思いが頭の中に渦巻いたまま、ひとつの言葉に出会った。

 

 

 

「子どもを通してみると新鮮な世界が広がっている」

 

 

 

 


ネットで目にしたのか、ラジオで耳にしたか、テレビ番組で観たのかは思い出せないが、言葉だけがはっきりとぼくに残った。おそらくぼくはこれから『みたことないもの』が減っていく。感動する頻度は減り、かつて楽しんだ作品ばかり観て、食事も同じものを好むようになっていくのかもしれない。だが子どもはちがう。ぼくがこれまで生きてきて驚いたことに同じように驚いて、これまでに与えられた選択肢に彼らなりの答えを出す。そしてかわっていく世界にぼくらよりもうまく同調していくのだろう。ぼく1人ではみえない世界が彼らの前に広がっているのである。その世界をみようとして幼児について回ると不審者である。ならば自分の子どもを産もうか。いや、こんな動機ではまだ子育ては早いだろう。

エヴァキャスト男女による完結作との向き合い方

 


今でこそスマホアプリやユーチューバー同士の"コラボ"が盛んになったが、エヴァンゲリオンはその走りだった気がする。

 

 

 

庵野さんがNHKのプロフェッショナルに出演した際に、命よりも作品が第一だと語っていた。どこかで、いい作品をつくるためにはお金がいるんです、ともインタビューに答えていた。だからパチンコや飲食店とコラボして予算を集めた。その結果、物語の衝撃と相まって何年もエヴァンゲリオンは認知され続けてきたのだろう。しかし『シンエヴァンゲリオンオールナイトニッポン』には驚かされた。

 


番組は劇中の印象的なセリフが次々と流れてからはじまった。音声だけのためか予告映像よりも本編に踏み込んだ内容が含まれていたので、あの感動が蘇った。そこからは声優さんから、録音されたメッセージが届けられて、スタジオにいる主要スタッフはリスナーの質問に答えたり、鶴巻和哉監督と前田真宏監督がリモート出演する構成であった。

 

 

 

 

 

 

 


ここからはシンエヴァンゲリオンのネタバレになる可能性があるのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンエヴァンゲリオンの受け取り方が観客によってちがったようにキャストにとっても感じ方は様々であった。面白かったのはその受け取り方が男女で大別されていた点である。男性キャストは口々に「まだ終わった気がしない」と次回作を匂わせるようなコメントを残した。女性キャストは「完結作に関われて幸せでした」とあくまでこれが最後だ、というスタンスだ。レイ役の林原めぐみさんは男性キャストに「もう終わったの」と諭していた。シンジ役の緒方恵美さんは男の子の役だったためか男性キャストの想いと近かったようだ。

 


ラジオ内で「男女の作品との向き合い方が男女の恋愛観に近いのかもしれない」という話になった。男性は過去の恋愛データを別フォルダに残したまま新たな恋愛をはじめて、女性は過去のデータを上書きしていく。

 


エヴァンゲリオンに携わった人たちの働き方にもこの考え方は影響されているように感じる。レイ役の林原めぐみさんはレイと、ポケモンのムサシを演じ分けている。あの人の演じ分けはデータを都度書き換えているとしか思えないほど多彩である。ラジオの放送中はレイに近い声でずっと飲み会の話をしていて素敵だった。一方の男性は庵野さんが思い浮かんだ。庵野さんはプロフェッショナルのインタビューで「なにをつくってもエヴァ(のよう)になってしまう」と答えていた。エヴァンゲリオンのメッセージはどの作品も共通しているように感じるが、それぞれが違った味わいでどの作品も大いにぼくらを楽しませてくれた。

 


ぼくはずっと過去の恋愛(或いは創作物)に囚われてしまうのはどこか女々しい行為だと思っていたが違うらしい。女性は思ったよりも男性で、男性は思ったよりも女性である。