若手社員の逃げ場

仕事で辛いことから現実逃避して、気持ちの休まることを書きたいです。

『ラブデスロボット 自動カスタマーサービス』の管理社会

 


スマート家電というものをテレビでみたことがある。たとえばスマートフォンで外出中でもエアコンのスイッチをつけられて、帰宅したときには部屋を快適な温度に整えることができる。単一の機械で完結せずに他の機械と連動して動かせる家電のことを指すようだ。

 


ネットフリクス のオリジナルアニメシリーズの『ラブデスロボット』の第2シーズンが配信された。この中にお掃除ロボットに追いかけ回される話がある。この話がスマート家電の行く末を示唆しているようで衝撃を受けたのでここに書いていく。

 

 

 

 

 

 

 


ここからは『ラブデスロボット 自動カスタマーサービス』のネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この話の舞台では街が機械に溢れ、あらゆる仕事や雑務をロボットが行っていた。家の中では大型の自動掃除ロボットが掃除を行うが、主役のおばちゃんが「ゴミ」として認識された。そこからは殺人ビームを発射させながら「ゴミ掃除」を行なっていく。この掃除ロボットもスマート家電である。家中の機械と連動しており、遠隔で部屋に鍵をかけておばちゃんを追い詰める。家の外に出ることに成功しても街中のロボットがおばちゃんを追いかけていった。

 


現在のスマート家電の普及率はどれほどであろうか。多くは同一のメーカーの商品でないと相互に操作することができない。それは動かすメカニズムが明らかになってないと連携がとれないからではないだろうか。しかし自社製品のメカニズムをそうそう他社には教えられないだろう。うまいこと仕組みをブラックボックス化させないとメーカーを問わず、スマート家電を対応するできない。仮に一社の家電メーカーがあらゆる家電をつくりだして家の家事をさせれば可能だろうか。しかし1つの企業に自分の生活を委ねるのもなんだか恐ろしい。

 


この作品のようにユーザーの行動を見守るような機械はまだない。現代で1番近いのは『世間の目』だろうか。作中で掃除ロボットがしたように『不適切な存在』だと判断されたら街中が警戒して自由に暮らすことは困難になる。

 


家電のスマート家電化は間違いなく進むだろう。『世間の目』にあたるものは家にまで入りこむ。そうなったら自慰行為などやってられないだろう。仮にまとまった時間、カメラをオフにできたとしても、それが長時間続けば「なにか悪事を働いてるのではないか」と勘繰られる可能性もある。何者にも監視されない空間が必要だろうがそこは犯罪の温床になりかねないのだ。

 


ふと、まわりをみてみるとテレビの電源部分とエアコンの一部が光っている。こちらをみてやしないだろう

アンガールズ田中と大泉洋が語る年代論

 


リアクション芸に秀でていると思っていたアンガールズ田中さんもこのところは審査員キャラが板についてきた。若手の頃からブレイクを果たし、ずっと第一線で活躍し続けている。その経験が「どうやったら芸能界で生き残ることができるのか」といったメソッドを構築していったのだろう。そのメソッドは芸能界だけではなく我々一般人にも共通するものもある。例えば「20代に求められるものは元気。30代は実力。40代は説得力」という言葉だ。

 


ぼくは26歳だが実力を要求される30代にずっと怯えていた。ひょっとするとそれは20代当初からはじまっていたかもしれない。24歳で働きはじめて「賃金による責任」を感じ、25歳からいずれ要求される実力を自分が得ることができるのかと、あと5年を残しながら思っていた。

 


これは普遍的な悩みのようでウェブ記事にてTEAM NACSの面々が悩み相談に答える企画で「30代を迎える不安」を相談に応じるものがあった。

 


https://ananweb.jp/news/350193/

 

 

 

この悩みについて大泉洋さんはこう答えた。

 

 

 

「20代に何の魅力がありますか? と聞きたいです。やっぱり人は30からでしょう! 私自身は、29歳は早く通り過ぎて、大人の仲間入りをしたいと思っていましたから。二十歳で成人なんていいますけど、二十歳のどこが成人なんだと。仕事が面白くなったのも30歳からですし。20代は爆笑しているうちに終わって、自分で考えてやれるようになったのが30代ですから。一番楽しい仕事ができると思っておいたほうがいい。」

 


少なくとも20代もずっと爆笑してられるほどお気楽なものではない。しかし先日、実力を要求されるような仕事を任されてから感じたことがある。『自由に仕事をできるたのしさ』である。『実力を求められる』とは言い換えると『好き勝手していいから結果を出せ』ということであろう。今までは仕事を覚えさせる目的で自由を制限したオーダをしてきた。だから自分がやる必要があるのかは疑問だったし、行き過ぎると『果たして自分は必要とされているのだろうか』といった思考に陥ってしまった。

 


大泉さんのような芸能人であればステージの真ん中に立てるのは30代前後の経験をつんできて信頼を勝ち取った者であろう。ぼくら若手は主役たちに花をもたせるようにパスだけだしていればいい。しかしシュートを決めるにしても、パスを出すにしても、必要なのは狙った場所に精度よくボールを蹴り込むことである。グランドの隅っこでサボってることがバレないように軽く走ることではない。人混みを掻き分けてボールをもらいに行くこと、それこそがアンガールズ田中さんの言っていた『元気』ではないだろうか。そしてそのパス回しをこなしている間にボールコントロールが向上し、実力になっていく。

快適な正解と意味を見つけること

 


ぼくらは義務教育で正解を学んだ。答案用紙に問題集でみた解答らしきものを書き足して教師に渡すと丸とバツで正誤判断される。正解が多いと得点が上がり、少ないと得点は下がる。いい成績をとるためには正解を連発しないといけない。当然社会に出ても正解が望ましい。しかしお金が絡むと途端に正答率が上がる。定刻通りに列車がやってきて、アナウンサーは発音よくニュースを読み上げる。できて当たり前。正解がありふれた社会で、その価値はすくない。

 


ネット記事で独立研究家の山口周さんのお話を読んだ。所謂3種の神器とよばれる、洗濯機、テレビ、冷蔵庫は今の価値にすると300〜400万円したそうだ。それなのにスマートフォンが浸透したようにあっという間に普及した。それぐらい価値があって正当に評価された商品たちである。その当時思い描いた未来にどれぐらい近づいただろう。

 


まちがいなく便利にはなった。しかし幸福にはなれているだろうか。

 

 

 

ぼくが中学生のときはCDをレンタルしてパソコンに取込み、それをiPodと同期して聴いていた。アルバムには10曲弱の曲が収録されていて5枚レンタルで1000円。新作のCDだともっと値が張った。あのときは音楽番組が週にいくつも放送されていてテレビではCMを超える度にちがうアーティストが映し出された。テレビで映りかわるようにぼくもiPodの曲を充実させたかった。しかし当時のお小遣いでは月にアルバム5枚が限度である。大人になったらいつかこのiPodの容量いっぱいに曲を持ち運びたいと思っていた。

 


容量が埋まる前にSpotifyを知った。月額料金で様々な曲を聴ける。日本でサービスがはじまった当初は聴けるアーティストはすくなかったが、いまでは星野源さんや東京事変の新曲が新曲料金を払わなくても聴ける。聴ける曲数はiPodの容量をゆうに越えた。何台のiPodを用意すれば全ての曲をインストールできるのか計算するのを考えただけでも気が遠くなる。

 


ある意味ではあのときの夢が叶った。しかし不思議と音楽からは離れていった。iPodの曲を取り込むときはパソコンの前に正座をしてアルバムの曲を聴きながら待っていたが、最近アルバムをまるまる聴いたアーティストはどれぐらいいるだろう。

 


あのとき「ほしい」と思った「正解」がやってきた。なのにぼくの赤ペンがつけた丸は霞んでいる。

 


これからも正解はふえるし、周りの人たちは正解の解答用紙をつくりつづける。どの解答用紙の点数も高い。それが当たり前すぎて凄さに気づけていない。あなたがつくりだした解答用紙は決して一夜漬けで完成するものではない。解答用紙に価値を与えなければならない。それは先生、もとい大人の役割なのかもしれない。

ケンリュウ『紙の動物園』の老いの選択

 


ある日を境に足をつることがふえた。つっている間はなるだけ足が動かないようにして痛みが去るのを待つが、あの時間は相対性理論がもろに働いて永遠痛みが続くような気がする。足がつる頻度が増えるのは加齢のせいではないだろうか、と怖くなった。もし違うとしても歳をとる度に身体は衰えていって足をつる痛みどころではない苦しみがぼくを襲うだろう。

 


ケンリュウさんの短編集「紙の動物園」で一層惹きつけられたのもそんな年齢に関する話だった。

 


表題は「波」である。不老不死を叶える術を得た人類は居住可能な星を目指しいている。ただし乗組員全員に治療を行うことはできない。船のエネルギーや食料に限りがあり乗員が増え続けたら不足が生じる。かと言って子どもを産まなくなってしまえば長い航海を越せずに人類は衰退してしまう。機械によって最適な計算が行われながらも治療を行う判断は人が下さなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ここからは本作品のネタバレをしていきます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもに不老治療を行えば成長しきらないままである。大人には不老治療に嫌悪感を示すものもいる。ぼくならなにを選ぶだろう。歳をとるのは怖いし、好き勝手に遊び続けたいが、酒は飲みたいし、もし嫌いな大人がいても力では勝てない。かといってなんの治療もすることなく年老いるのは恐ろしい。大切な人が認識できなくなって自分のこともひとりでできなくなるかもしれない。そんなリスクに耐えられるだろうか。

 


この話は老いだけでは終わらない。地球に残っていた人類は地球上で技術を発達させて宇宙船の乗組員を追い越して居住可能な星に辿り着いていた。しかし身体は全て機械に置き換わっていた。人とは識別できないレベルに。彼らは異星人だと思われるほど変貌していた。

 


永遠の命を手に入れて肉体さえも不要になる。

 


テレビも冷蔵庫もパソコンも機械だ。我々人間は何万年も前からこの姿だ。多少自分を包む布の形や髪型に変化があったぐらいだろう。機械はどうだ。ぼくが生きている20数年の間に全く形はかわって機能はふえ、みたことのない姿のものも現れる。機械になってしまえばパソコンのように新しいソフトがどんどん入ってやれることがふえていくだろう。この作品では機械になったものたちにも子どもがいた。新しい人格を自分からいくつも創造できる。食料などに悩ませられることなく機械仕掛けの人間たちはどんどん数をふやした。

 

 

 

歳をとらずにやれることがふえていく。とても魅力的に思える。しかしこの作品を通して感じたのは恐れである。老いは怖い。あらゆることができなくなっていくことが辛い。だが、無限大の時間を与えられてなにをしようとする。身体能力が衰えずに無限大の時間を与えられればなんにだってなれる。いまから甲子園を目指すことも可能だ。しかしそこに価値はあるのか。誰もが同じように無限大時間をもっている。あらゆることが成し遂げられる。故にそこに価値はない。だから消費できない時間をなにもせずに過ごすだろう。

 


ずっと咲き続ける桜に美しさを感じるのだろうか。他の木に混じって風景となってしまうのだろうか。永遠にソリティアをやり続けても完成に喜べるのだろうか。少年時代を愛しく思うのは既に過ぎ去って戻ってこないことを知ってるからではないだろうか。上司が「怒ってもらえるのはいまだけ」と何度もいうのはぼくの歳を恋しく思ってるからではないのか。

 


時間は有限である。だからこそその時間内に偉業を成し遂げると称賛される。自分が無為に過ごした時間を偉業にかえられているのだから。老いとは過去に価値をもたせることである。ならばデカいことをしよう。老いたときに一層輝くように。

平日のスーパーにいる大人たち

 


しばらくお仕事番組をみれなくなった時期がある。仕事に嫌気がさして何ヶ月も休んでいたのである。ぼくの通帳口座が休みのリミットを示しており、家で過ぎる無為な時間にイライラしていると金づかいが荒くなってリミットが近づいてくる速度は増した。すぐに職場に復帰しなければと思ったものの、何日も会社に行かないとどんな顔をして働けばよいのかわからなくなるのだ。同僚たちはぼくのヘンテコな顔をみてもイジったりしないだろう。そこまでの仲ではない。おかしな顔を認知しながらもみなかったことにしてパソコンに顔を戻す。そんな光景を掻き消すように金をつかった。

 


働かざる者食うべからず。とは言うが働かなくても腹は減る。赤ちゃんは食べるのが仕事。とも言うが仕事を放棄した人間の食事は仕事としてみなされるのだろうか。自分で米を炊いて食ったらそれは働いたことになるのだろうか。まとまりのつかない頭でスーパーへ行った。平日の昼間でもスーパーにはそれなりの人がいて驚かされる。あの人たちは主婦なのだろうか。平日休みの人なのだろうか。リモートワークが認められている会社の人なのだろうか。まさか全員会社に行きたくない人たちではあるまい。真人間たちの間をヒゲにTシャツのぼくが小さくなりながら通った。カゴは邪魔にならないようにぼくの真後ろに持って移動する。誰の印象にも残らないように素早く食材を詰めて精算した。

 


それから周りの目を気にしてスーパーに行くためだけに服を着替えてヒゲを剃ることになる。家に帰れば、またTシャツである。

 

 

 

働いてる人をみてもいたたまれない気持ちにならない、と認識したのはつい最近である。働く人の大多数は頑張っている。自分の夢を叶えるためかもしれないし、頑張ってるフリなだけかもしれない。わからないが皆、懸命にみえる。あのときはそれを直視できなかった。みるためにはどうすればいいのか。自分を肯定できるほどの仕事をするのである。働いてる人をみても動じないのは働いてる人だけである。そしてその人の頑張りに気づけるのも同じである。そこから自分も頑張ろうと還元されていく。家で浪費していてもその輪に入れない。働かざる者食うべからず、とは半強制的にその輪に人を入れこむ言葉だ。入ってしまえばまっすぐにみれる。

ないことの豊かさ

 


情熱大陸でプロキャンパーの伊澤直人さんが特集されていた。伊澤さんはキャンプに持ち込む道具が少なく、一般の人が10kgのところ伊澤さんは5、6kgである。ほぼ半分。そこにテントは含まれていない。キャンプに必須かと思われたテントでさえ持っていかない。布を木に縛って雨を凌ぐ。米を炊くには空き缶を使う。火の調節ができないので缶を火から遠ざけたり近づけて調節する。

 


外で飲む酒は美味い。そう知っていてもなかなかキャンプに踏み切れずにいた。だからぼくは友人に誘われるまでキャンプの経験がほぼなかった。ソロキャンプをしてもいいのだが道具を揃えるのに躊躇してしまうのである。1回したきりでキャンプに行かなくなってしまうかもしれないし、失敗したくないという想いがある。

 


伊澤さんのキャンプをみていると道具の心配なんてどうでもよかった気がしてくる。なくても工夫次第でキャンプを楽しめるのだ。

 


伊澤さんは「同じ焚き火はない」という。それはヒトがずっと自然に順応してきたということだろう。型がないからこそ順応できて豊かになる。

たりなさによってうまれるもの

 


会社に文字通り爪弾きにされているおじさんがいる。ぼくは入社4年目で、初年度にその人と部署が同じになったが、その人はすでに4回部署移動をしている。ぼくの上司は「おれではアイツの面倒を見切れん」とボヤいていた。あの人の悪名は社内に轟いており、よく名前を耳にした。勤続年数自体は長いので仕事のことを聞きにいくことが多かったが3回に1回は寝ていた。あの人のいう通りにしたら怒られたこともある。

 


それでもぼくはあの人がすきだった。社会のプレッシャーに負けそうになってもあの人と喋っているときはプレッシャーを避けられている気がしていた。

 


先日、あるお笑いユニットが解散した。ぼくはその模様をオンライン配信でみていた。2人ともすっかり売れたが自らの劣等感によって結びついた2人であった。志の高さゆえの劣等感であるとは思うのだが2人とも『たりなさ』を感じていたのである。そのたりなさが2人を引き合わせた。たりなさがつないでいた関係だったのである。

 


ぼくは、あのおじさんに惹かれたように、なぜだか不完全な、むしろダメさ全開の人が気になってしまうようになっていた。それは自分の至らなさを重々承知しているからだろう。類は友をよぶというが、ぼくの友だちの悪いところもたくさん目にはいる。それでもその人たちと一緒にいようとおもった。たりてないからぼくが埋めてあげようとおもった。たりてないからぼくも埋めてほしいとおもった。

 


世の中にはどんどん新しくて複雑なものが生み出されている。それらすべてに適応してこなすことは不可能である。できないことを嘆くか、できないことに気づかないふりをするかしかない。だからまわりにたりないと感じることがどんどんふえていく。そしてたりないと感じる人がどんどんふえていく。そこで感じたたりなさがぼくらを引き合わせる。